社会復帰奮闘記 -7ページ目

社会復帰奮闘記

大うつ病から双極性障害へ
私が体験した絶望から復帰への奮闘記

←3・仕事という宗教

ある現場の帰りでした。
その現場は仲良くさせてもらっていた事務所からの外注で
いつも上司と一緒で息も詰まってることだろうと
比較的楽な仕事をそこの事務所の方と一緒にお仕事させてもらった時のことです。

そしてその事務所には私の病気を知ってくれてる親友もいて、
なんと心強いか、なんて楽しいのか、そんな現場でした。
今でも感謝の言葉でいっぱいです。

が、その感謝いっぱいの現場の帰りに崩壊は既に始まってました。

ここからお話することはほぼ大半覚えていません。
後に聞かされたり、記憶の断片と私の残したLINEやツイッターや通話記録のSOSで
継ぎ接ぎされた現実です。

まず、その現場からの最寄り駅で両親に電話しました。
理由はわかりません、とりあえず連絡しました。
そしてこう告げました。

「ごめんやけど、迎えに来て。」

実家から私の住居まで車で一時間半、
私は田舎から両親をまず呼び出しました。
その声はとても明るかったようです。
しかし、私の病気を知っている両親は慌てて車を飛ばすこととなります。

そしてもうここから何も覚えてません。
断片的に自分の行為などがゆらりと記憶にあるのみで
道中、どうやって帰ってきたかわかりません。
パニック障害を発作し、息も絶え絶えでどう帰ったのか、
未だに謎です。

恐らくそこから電車に乗り、自分の住居の最寄り駅を当然目指したのでしょう。
しかし私にはもうここはどの駅なのか把握する力すらなく、
足を引きずって電車を降りて、係員の方にここはどこか、と訪ねたのは覚えています。

「ここは何駅でしょうか。」

係員の方はさぞかし不思議に思ったことでしょう、その顔が記憶の断片に残っています。
ものすごく困った顔で私に駅名を告げると去っていきました。
私は無事最寄り駅に着き、そこから自宅へと帰ります。
ふらふらと人を避けつつ、車に驚きつつ、耳を塞ぎつつ、腕を爪で掻き立てつつ。

推測です。腕に爪痕が残ってましたし、ピアスもなくしていました。
恐らくそうなのだろうと思います。

そして自宅で倒れました。


地獄でした。


過換気症候群、いわゆる過呼吸で歩くにも歩けず、とりあえず玄関を這いずり、
リビングまでほふく前進で進みました。
そして固まっていく手足、、、。二酸化炭素が体内に充満し、
手は縮こまり、足はしびれて、もうどうにもならない状態。
心臓だけが「生きなければ」と必死に動き、鼓動は早まるばかりで
呼吸もままならない。

涙も鼻水もそのままに
縮こまった手で様々な人に電話をかけていました。
親友、上司、上司の奥さん、両親。
私に死の恐怖が襲っていたのです。

親友にこう言葉を漏らしたのを覚えています。
「死にたくない。」と。

親友は私をなだめ、両親が来るのを電話でただひたすら一緒に待っていてくれました。
上司も救急車を呼ぶか否かで悩み、結果、奥さんを私の自宅へ派遣することにし、
両親はただ事じゃない娘の声に車を飛ばし、、、。

私はただただ泣きました。
動かぬ手で、固まってしまった指先で、LINEの親友グループに「しんどい」と伝え
死の恐怖と一人、戦っていたのです。

そしてその30分後、両親が来てくれました。

過換気症候群は通常、10分~30分で治まるのだそうです。
しかし、心因的なことと、疲れとでか私はそれ以上の時間をかけ
心臓に負担をかけ続けました。

感覚はもう上半身のみで、顔、腕、足にかけては
冷たく、麻痺にも似たものがまとわりついていました。
両親が私を背負い、車に飛び乗ると、そこから長い長い戦いが
私を待っていました。


この後、1時間半の道のりを過呼吸のまま帰ることとなります。