今日は、私の故郷のお話ではないけれど。


なんか「こころの故郷パート3」にしたくなったので。



先日、友人に誘われて行ってきた素敵なコンサートのお話。


それがね、とっても不思議なの。


開演前に、会場の外で並んでいる人達と言ったら


若者ありの、子供連れの夫婦ありの、ジジババありの、あらゆる年代層の方々。


私の前にタクシー乗りつけていらしたご婦人は、


ご高齢で杖をついて、キャリーバッグに荷物沢山積んで、


そんでもってたった一人でこのライブにいらしたんですよ~


いったい誰のライブ??


この人たちでした。




本当は写真とか撮っちゃいけないんだけど、なぜ撮れたかと言うと


ほら、歌の歌詞に「写真を撮って」ってあるんだから、ダメって言えないでしょう


「もうみんな撮っていいからね」って


会場が「うわああああ」って


凄いよねぇ、これだから25年も愛されているんだと納得。


沖縄出身の方々なら、そりゃ足が悪くても、タクシー使っても、ひとりでも、そりゃ来るわ~


懐かしい旋律聴いて、おじいおばあに、父母に、会いたくて胸キュンだろうなぁ




私はオープニングの曲 「朝焼けの情景」


この曲にやられました。


「ふるさとの朝焼けは 何年振りだろうか 母ちゃんの手を引かれて 歩いたあの畑道


朝ごはんと渡された キズのついたトマト 売り物よりも甘かった 


思い出したら泣けてきた


東京暮らしが辛くて 泣いた訳じゃない 胸に被った街のホコリを 振り払うように


この朝焼けと思い出が優し過ぎて


母ちゃんとまた歩けるかな 朝焼けに染まる道を


誰よりも早く父ちゃんは 麦わら帽と長靴で 一仕事を終えた頃 いつの間にか空は青く


あの頃はまだ強さと 大きさを知らずに 早く時が過ぎればいいと 空を見上げてた


汗で濡れた背中に 気付かないままで


父ちゃんのようになれるかな 朝焼けに染まる街で


シワだらけになった手から 渡されたものと 小さくなった背中に見える まだ大きなものと


時の流れで変わっていく景色を胸に


僕も君に残せるかな 朝焼けに染まる情景を」



この歌詞、凄い詩人だわ~


この感覚、我々世代だわ、泣けてきた。



残り少ない命の日数、楽しい時間を拾い集めて生きて行こう、、、、、っと。


なぜかそんなことを思った一日でした。



セピア色の思い出をもうひとつ。

私は小学生の時、お習字を習わせて貰いました。

その「習字教室」は、やはり浅草繁華街を通って伝法院通りにありました。
先生は身体に障害がある女性の方で、「小児麻痺」と聞いていました。
車イスは使っていませんでしたが、歩き方が大変そうで、言語も聞きづらかったです。
お母さんと2人暮らしで、子供相手にひっそりと習字を教えておられました。。

この先生は優しい方だったのですが、お母さんがなかなかキツイ方で、
子供たちの無作法をよく叱っていました。

ある日、洗い場で筆を洗っていた時に、私がした事でないのに叱られた事がありました。
とっさの事で、返す言葉に困っていた時に、先生がすぐ気づいて
「55ちゃんじゃないのに、ごめんなさいね」って言って下さいました。

家に帰ってから、そんな出来事を祖母に話して
「いつもなんだ、あの婆さん、だから私好きじゃない」って言ったら

祖母の視点は全然違うところにありました。

先生のお母さんを尊敬すると言うのです。
どんな思いで我が子を育てたか、その苦労に思いを寄せるのです。

祖母が言うには
障害を持つひとり娘の将来を見据えて、自分が亡くなっても自立して生きていけるように、厳しく育てたであろうと、
それこそ心を鬼にして、
それは誰にも出来る事じゃない、気丈でキツイ方なればこそ出来たんだと、

子供の私には「ふ~ん」と言う返事しか出来なかったけど
今なら祖母の気持ちが分かるのです。

祖母は自分自身がそう出来なかったから、
発達障害の自分の娘を甘えるだけ甘えさせて育ててしまったから。

でもそれは仕方ないよ婆ちゃん、母さんの場合はそれしかなかったんだよ。
子供の頃は、私、母の事で婆ちゃん責めたけど
今は、そう思う。


ところで
思いがけず
この先生のその後を知る事が出来たのです。

私が以前、思い出を綴った日記ブログに、この先生の事を書いたら
知らない方からこんなコメントを頂きました。

「テレビでポリオワクチンのニュースを見て無性に子供の頃の事を思い出してしまい、検索してこちらの日記に辿り着きました。
私も同じ先生に小学校の6年間、お習字を習っていました。
お母様はすでにいらっしゃらず、先生はお弟子さんと一緒にお教室を続けていらっしゃいました。私が5年生の頃に、先生の物語を映画になさった方がいらして、浅草小学校でロケもありました。」

なんと、私より何学年も後の方からのコメント。

先生はおひとりでもしっかり生きていらした。お弟子さんと一緒に続けていらしたんだ。
お婆ちゃんの言う通りだね。やっぱりお婆ちゃんは凄い。

なんか心がタイムスリップして、懐かしくてたまらない。

またまたあの時のお婆ちゃんの笑顔が浮かび、ウルウルな私です。

先日、武田鉄矢さんの「母に捧げるバラード」を聴いて、不覚にも涙してしまった。

「僕に…ひとつ残っている故郷があるとすれば、お母さん、それはあなた自身です。あなたは、なにからなにまで故郷そのものです。
今、こうして静かに目を閉じていると、お母さん、あなたの声が聞こえてくるんです」

私にも故郷があります。
母親代わりの祖母が、私の心の故郷なんです。
先日、浅草で「蛇骨湯」を見かけて、祖母との思い出が蘇り、書きたくなりました。
聴いてくれますか
昭和30年代のセピア色の思い出です。

私の家は、祖母が駄菓子屋とタバコ屋を営み、生活の足しに、二階の4畳半を間借り人に貸していました。
トイレ炊事場共同、勿論風呂なしの古い部屋でした。
浅草と言う土地柄、水商売の方が多かったのですが、ある時、我が家の間借り人には似つかない女性が住んでいた事があります。
30~40歳代で、品のある綺麗な女性でした。
小学生の私は、その女性に会うのが楽しみで、家の二階に住んでいる事が、密かに自慢でした。
仕事で地方巡業行くとお土産を買って来てくれました。

ある日、いつも行く近くの銭湯が休みなので、歩いて10分程の「蛇骨湯」に行く事にしました。
浅草の歓楽街の中心にある銭湯へ、祖母と孫娘。
浅草ロックと言う場所を通ります。
日活と言う映画館、演芸場、見世物小屋、不思議と生活の範囲でした。
帰り道、
祖母の足が止まりました。
ある劇場の前で
大きな看板の前で
「ちょっと待って、あれぇ、これはこれは」
フランス座と言う有名なストリップ劇場の大きな立て看板の前で
お婆ちゃん仁王立ち
客寄せしているおじちゃんも、相手が婆さんじゃ声もかけられず困り顔。
私は恥ずかしくて、祖母の袖を引っ張り
「お婆ちゃん、早く行こう、ねぇ行こう」

やっと歩きだしたお婆ちゃん、帰りの道は黙りがち
「ねぇ、あの裸の写真の女の人、二階のお姉さんなの?」
根掘り葉掘り聞く私に
祖母はこう言った。

「いいかい、55ちゃん」
「大人はみんな誰にも言えないものを背負って生きているんだよ。
人には言えない事が沢山あるんだよ。
身を削って生きているのはみな同じ、一生懸命生きているんだ、
人の事をあれこれ言っちゃあいけないんだよ」

その通りだね、お婆ちゃん。
今でも忘れられない、
祖母を思い出すと、この歳になっても目がウルウルですわたし。

昔テレビ番組で、ある法則を提起して、それが成り立つか出演者に問う、そんな番組ありましたよね?


その真似して、私が見つけた「○○の法則」


それは


「ALSになる人には人格者が多い」 と言う法則。


これホント。


ALS(筋委縮性側索硬化症)と言う病気をご存知だろうか


進行性の神経変性疾患で、根本的な治療方はない、と言う意味では私の病気と同じだが


大きく違うのは、PDは薬物療法で症状を一時的に改善させることが出来るが、


ALSは効果的な治療法がなく発症からの寿命が3~5年と言われている。


同じ仮設住宅に住んでいた友人のご主人さんがALSだった。


ご近所には、この病気の深刻さは中々理解されず、私だけに心をわって本音を語ってくれた。


ある日、医者から言われた。


「今のうちからご夫婦で、その時が来たら呼吸器を装着するかどうか、話し合っておいて下さい」


彼女、泣きながら私に言った。


「55さん、私、冷たい妻でしょうか、主人に生きていてい欲しい、だけど自分も高齢だし、ずっと介護する自信がないの、主人が呼吸器を選択したらどうしよう、って思う自分がいるの」


今までずっと寄り添って介護していたのを私は知っている。


同じ仮設の住人の中でも、私は彼女を人として妻として見習いたいと思っている。


そして彼女のご主人さんと言う方はもっと尊敬している。


週に3回デイサービスに行っている、本当は家にいたいのに、奥さんが大変だから、奥さんが少しでも休めるように自分から行っていた。


思い通りにならない身体でも、誰に対しても感謝の言葉を忘れず、人に当たって大声出したことがない。


ついつい、我が夫だったらどうだろう?と比べてしまいますワ(許せ)


夫なら、思い通りにならなくて、絶対イライラして怒鳴り散らす、人に当たり散らす、


もう想像できちゃう。


結局、このご主人は、呼吸器装着をご自身の意思で選択せず亡くなった。



先日、弟夫婦にこの法則「ALSになる人には人格者が多い」と言ったら


そく 「おう、俺もそう思う、本当にそうだ」と言ってた。


この法則に当てはまる人をたくさん見てきたと。


以前、あるブロガーさんがALSのお父様の事を記事にされたのを読んだことがある。


そのお父様のお人柄に感銘したことが今も忘れられない。



皆様の周りを見渡して、どうでしょうか?


この法則、成り立つと思いませんか?


ところがこの法則、ALSに限定でして、私の病気には当てはまらないんですなぁ、これが。


先日、もう一人の仮設住民の知人が、私と同じ病を宣告されたとか。


その人、こんなふうに言われてます。


「たたられたんだっちゃぁ」 「バチ当たったんだっちゃぁ」


およよよ、


私も言われてたりして( ´(ェ)`)









同病者と話してみたいなぁと、罹患10年以上経って思った私。



ふつー、JWに関心がある人が最初に足を運ぶのはどこでしょうか?


近くの王国会館?(今どきそんな人いないか)


それと同じように、本当なら自分の住んでる県にある支部に連絡すればいいのです。


が、まだ迷ってた私はそうしなかったの


近くの会衆には近づかず、知らん顔して大会に行って見る、みたいなことしました


それなら誰からも勧誘されないし、全体を観察できると。(なんでしょねこの傲った態度)


そんな機会があったのです。昨年6月に。


「患者、家族、専門医、研究者、医療関係者などパーキンソン病に関わる人々が一堂に会し,情報交換や体験発表を通じて問題を共有し…」


という日本で第1回目の全国大会が水戸で。


水戸駅近くのホテルで全国から350人ほどが集まりました。


JWの大会そのもの?


いえいえ、全然違いますがな(笑)


上からの一方通行ではありません、患者からも活発な、時には言いにくい発言も、


これぞ全国からわざわざ集まったかいがあったと言うもの


聴衆は意見も言えない、有り得ない決議にも賛同しなければならないJWの大会とは大違い(笑)


なんですが


残念な事に、JWの大会慣れて居眠りばかりしていた私は、この時の内容は頭に残っていません。アーン。


この日に素敵なご夫婦との奇跡の出会いがあったのです。


350人聴衆がいる中で、偶然隣の椅子に座ったご夫婦。


東京から参加された50代のご夫婦でした。


お互いフツーの会話しかしてなかったのですが、懇親会の後、どなたかを探しておられる様子。


えっ、ええっ、なんかどうやら我々夫婦を探しているらしい。


「この後どこ行かれる予定ですか?良かったらご一緒しませんか?」だって


「あのぅ、我々夫婦の行く場所は居酒屋なんですがぁ」


「はいはい、ぜひご一緒に行きましょう」だって


後から思ったんだけどね、大会の内容も上の空で、我々夫婦は


「今日の夜はどこの居酒屋にしようか」「ホテルのしたに安そうな居酒屋あったよ」


って、こそこそ会話してたから聞いてたんだね、彼ら(笑)



奥様が罹患7年の患者で旦那様が付き添い。


私が丁度今から5~6年前の状態で、少し足を引きずるくらいで傍目には分からない。


薬が良く効いている時期だと思う。


この状態からあと何年かすると私のように薬効時間が短くなり、いわゆるオフ状態を経験する。


薬を飲んでも2時間前後でいきなりスイッチが切れたロボットのように足が動かなくなる。


慌てて薬を飲んでも、薬が脳関門を通過してドーパミンにかわるには30分以上かかる。


私たちは常にその日の行動予定に合わせて、時間単位で計算して、薬を飲む。


ある時は、朝8時に1錠飲んで、その後もシャキッとしているために0.5錠を一時間後に足す。


また午後に人に会う予定がある日は、午前中は少なめに我慢して、メインの時間にシャキッといられるように調整する。


そのようにある程度の調整は自分で出来るが、決められた1日量を守らないと、やがて幻聴や幻覚といった厄介な問題が出て来る。


それでなくても薬の血中濃度が上がると、ジスキネジアと言って、身体が勝手にゆらゆら動く副作用と闘わなければならない。


主治医が言っていたが、この病気どういうわけか几帳面な人が多い、そうでないと家族が大変だ。


んなわけでぇ、この奥様、数年後の自分の姿として私に関心を持っておられる。


私も、同じ時期を通過した者として、気持ちはよく分かるので出来ることはしてあげたい。



この旦那様がまた素敵な方で、聞き上手と言うか、我がダンナ様とは大違い。


4人で意気投合し、飲むわ飲むわ、腰を上げた時には日付が変わっておりました。



このご夫婦とは、この後も再会約束し、新宿で飲み、浅草のホッピー通りで飲みました。


これからもずっと続く予感


だってねぇ、お酒の縁だし




ところで、浅草のホッピー通り、なんであんなに何もかも高いんだ!


昔は、場外馬券を買ったおっちゃんたちが、もっと安く飲んでいた場所だったのに


弟も言ってた、あんなに高くちゃ、地元の人間は行かないよ。


浅草は「安い、美味しい、汚い」が売りだったのに。


観光客当て込んであんな商売して、浅草が浅草らしくなくなって行くようで、寂しいです。