最近、SNSでひとつの投稿を見ました。
こんなようなものです。
『富を願ったら貧困が与えられ、
健康を願ったら病が与えられ、
成功を願ったら失敗が与えられた。』
そして、その先は見ていないのですが、
シ_ _)シ ྀྀ՞ ྀྀ՞ ྀྀ՞
恐らくこれは、ある詩を下敷きに書かれたものかな、と思われます。
〝A Creed For Those Who Have Suffered〟
『私は神に強さを求めた、勝者となるために。
しかし、私は弱くされた、謙遜に従うことを学ぶように……。
私は健康を求めた、偉大なことを行うために。
しかし、私は病弱な状態にされた、より良いことがらを行うために……。
私は富を求めた、幸せになるために。
しかし、私は貧困となった、私が賢く在れるように……。
私は力を求めた、賞賛を得るために。
しかし、私は弱点を与えられた、私が神を必要と感じられるように……。
私はすべてのものを求めた、人生 (life) を楽しむために。
しかし、私には命 (life) が与えられた、私がすべてのものを楽しめるように……。
私は、私が求めたものは何も得られなかったけれど、
私が願っていたすべてのものは得ることが出来た。
私がほぼ意図しなかった方法で、私が口にしなかった祈りはすべて答えられて来た。
私は、
世にいるすべての人々の中で、
最も豊かに祝福された者だ!』
著者不明
『ある無名兵士の詩』
『病者の祈り』
英語にもなると、
〝The Prayer of an Unknown Soldier〟ともあれば、
〝A Creed For Those Who Have Suffered〟、
〝Prayer〟
〝I asked God〟
タイトルもいろいろとありますが、中身もいろいろと変化があるので、アレンジが大好きな国民性がうかがえたりします。
今回はこの詩を題材にしたいわけではなく、
そこから恐らくわたしが影響を受けては、
道を歩いていた時に降って来て与えられたことについて、少しだけ、さっくりと書いていきたいと思います。
わたしのいままでの理解
神さまは、わたし達に必要なものを与えてくださるとは知っていたことですが、
また、それが時として、というより往々にして、それはわたし達が願うものとは異なる、それでいて確かにわたし達の『必要とするところ』である、という理解でしたが、
(つまり、まさに上記の祈りの内容と同じ理解を、わたしはここ数日前まで持っていました🤔)
けれど。
実はそうではなく、
もっと大きな意味があったのではないか、いや、そうに違いない、と思う理解が与えられ、
それは、
『わたし達が願ったものを得られる環境を、神さまはわたし達に与えてくださる』ということ。
助けること
よく、『お腹が空いている人に魚をあげることは、それだけで終わってしまうけれど、その人に釣竿と魚の捕り方を与えることは、彼自身を成長させることに繋がる』といいます。
つまり、人を助ける上で必要なものは、
一時的な援助で終わらせるものではなく、長期的な援助と根気強い支援が自立の見込みが立つまで約束させるものと教えています。
『千と千尋の神隠し』で出て来る釜爺も言います、
『手ェ出すんならしまいまでやれ』と。
釜爺「手ェ出すんならしまいまでやれ」#千と千尋の神隠し #金曜ロードショー #ジブリ pic.twitter.com/O01AfF6Dpu
— アンク@金曜ロードショー公式 (@kinro_ntv) 2022年1月7日
(好きなセリフです
・:*+.(∩´͈ ᐜ `͈∩) .+*:・ )
また、生半可に手助けされると、手助けされた方は怠惰 (たいだ) になりやすい、という性質も関係している気がします。
(事実、この映画の中でも、
千尋が一匹のススワタリの手助けをしたことで、周りのススワタリ達も、ワザと同じ状況を作り出しては、助けてもらえないことに怒って抗議を始めるという流れを作り出します。)
人は、簡単に手に入れたものをたいせつにすることは難しいばっかりか、
簡単に望むものを与えられても、人は何も成長出来ず、かえって助けてくれた人を憎むものなのかもしれません。
神さまは環境を与えられる
ところで、
先に書いた、『道を歩いていた時に降って来て与えられたこと』ですが、それというのは、
〝人はドン底にいる時こそ、はい上がろうと努力する〟というようなイメージが視え、
そこで理解したのです、〝与えてほしいと祈り願った時に、それが与えられないばっかりか求める前よりも悲惨な状態に置かれるのは、経験と知識、知恵を得て、それによって得たものが確かに《自分のもの》となるためである〟と。
つまり、
たとえば〝お金持ちになりたい〟と願った時に、願う前よりもさらに酷いドン底に突き落とされるのなら、
そこからはい上がる努力をする時、人は学びや経験を通して、《どうすればお金を稼げるか》という知識を得ること、知恵を身に付けることが出来、それは一生ものの宝となります、決して人に奪われることのない。
愛せるように祈り、叶えられなかった夜
〝お母さんを愛せるようにしてください〟
そう祈り願った夜が、わたしには過去にありました。
いつもツラい人生でしたが、特別大変な時期が何度かあり、
その夜は、家を出る出ないの選択の中に立たされており、どちらを選ぶことが正しいのか分からずに悩んでいた時期の最中 (さなか) とあった気がして、 (あまりハッキリとは思い出せないのです
)
それでも何か、使命感のように心が燃えていたように感じていた夜でもあった気がして、
そこで祈り求めたのです、〝どうかお母さんを愛せるように助けてください〟と……。
そしてその後、理不尽 (りふじん) にも酷く怒られたのです
なぜ、助けを求めたにも関わらず、こんなにも過酷な環境に置かれなければいけないのか理解出来ず、わたしは自室に戻って泣きました。〝どうして……〟と、ワケが分からずに。
そうして、聞こえて来た声は、
〝それでも、
あなたは彼女を愛しますか?〟
こう、わたしに意外なことを問うたのでした。
〝それでもあなたは……〟
当時、まだ若かったわたしの答えは、間髪 (かんぱつ) 入れずに〝無理です!!!
〟というものでした。
でも、
これなのだと思います、神さまに祈り求める、ということは。
何かを与えられたい、と願う時、いまわたし達がいる状況を正しく判断出来るように、神さまは忖度なしの《ドン底》にわたし達を正しく突き落とすのでしょう、
普段の、《助けがあるゆえに生きられている場所》ではなく、
《助けのない、本来の場所》であるドン底に。
そして、問うのです、
〝それでも、あなたは変化を望みますか?〟と。
いまいる場所でも、わたしはあなたを助けています。
あなたは、そこでもわたしの恵みが充分なのです。
けれど、
もしあなたが変化を望むのなら、
あなたはいままで以上に努力が必要です。
それでも、あなたは変化を望みますか?
これが恐らく、〝祈り願っても、願った反対のものが与えられる〟ということの正体なのではないでしょうか?
これがすべて、とは言いません、
なぜなら、『わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている』と言われているからです。
『天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く。わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。』
イザヤ書 55:8-9
信頼して生きる
何かを求める時、人は大きなチャレンジが与えられるものかもしれません。
弱さを与えられることで、強さの本当の意味を学ぶかもしれません。
病が与えられることで、健康になるための道を探すかもしれません。
貧困が与えられることで、どうすればお金を賢く増やせるか考えるかもしれません。
弱点が与えられることで、その《弱点》こそが強さなのだと知るのかもしれません。
そこにどんな神さまの思いがあるのか、わたしは一概 (いちがい) には断定出来ないのですが、
それでも、
わたしには視えるのです、
笑顔で、拳を握りながら、
〝大丈夫、あなたなら出来るのだからっ〟
そう励ましてくださるお方の姿がぼんやりと。
文字通り目に浮かぶのです
それは、そこに〝信頼〟が存在しなければ生まれないものだとも、昨晩、寝る前に感じました。
〝あなたになら出来る〟という神さまからの《お墨付き》がなければ存在しないチャレンジであり、
同時に、
『神は……あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるようにのがれる道も備えて下さるのである』と使徒パウロが教えているように、
(1コリント 10:13)
そして、
『わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこに行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ。恐れてはならない、おののいてはならない』と、預言者ヨシュアに言われているように、
(ヨシュア記 1:9)
決して自分に乗り越えられない試練は与えられない、必ず乗り越えられる試練しか神さまは与えられない、と信頼し、
また、
決して自分は孤独のふちには置かれないのだと、
必ず人生のどんな時期においても、共にいて下さる方は存在すると信頼して生きることが、わたし達に求められていることかな、と思います
執筆中に聞き流していた《今日の一曲》


