真っ当な憲法を持ちたいものだ!
本日は憲法記念日なので、日頃から疑問に思っている「交戦権」について書いて見ることにした。
憲法改正の機運が盛り上がり、現行憲法をどのように変えるのか議論が行われている。議論の焦点は9条の②項をどのように扱うかのようである。九条の①項で国権の発動たる戦争と、武力の行使を放棄するとし、さらに②項で「国の交戦権は認めない」としている。特に交戦権は認めないという部分は自衛権との絡みで誤解を生じやすい。これを解決するため、誤解を生じる②項は削除せよという意見や、新たに③項を設け自衛権を明記するといった意見が出ているようである。他国から侵略を受けた場合、反撃する自衛権はあるのが自明であるが、現在の条文のままでは自衛権についても混乱が起きやすいので何らかの改正が必要である。何故このような混乱が起きたのかそこには深い事情があるようだ。以下それを究明していきたい。
日本国憲法出生の秘密
現在の日本国憲法は大東亜戦争に日本が破れ、アメリカを中心とした国連軍(実質はアメリカ)に占領され、日本が主権を失った期間に作られたものである。主権がなかったので、アメリカの命令により明治憲法の改正ということにし、全く新しい憲法が日本に押し付けられたのである。この事実をアメリカ占領軍は秘密とし日本国民に一切知らせぬよう大掛かりな検閲を実施した。しかも検閲が行われていること自体を秘密にしたのである。この間マスコミには厳しい報道統制を行い、民間の電話や信書の盗聴も大規模に行われた。違反すれば新聞やラジオは営業停止処分にされ、個人は公職追放等、厳しく処罰されたのである。このため一般の国民は日本国憲法出生の秘密を知らされず今日に至っている。
現在の日本の憲法の元は所謂「マッカーサー・メモ」と言われるもので、このメモに基づきこれを日本語に翻訳したものである。一応日本側で内容を整理し、可能な限り表現を改めることにより出来るだけ日本側の主張を生かそうと試みたようである。日本国憲法とマッカーサー・メモを比較するとその構成から内容まで極めて類似しているのに改めて驚く。このあたりの詳細は以前書いた『憲法談義』をお読み頂きたい。(UNK通信―313~319)
産経新聞「正論」を読んで感じたこと
4月25日の産経新聞「正論」に小堀敬一郎先生の「9条2項論議は主権問題である」と題する記事が掲載されていた。先生は筆者の尊敬する学者のお一人で、かねてからその著作に啓発されるところが多いのであるが、今回は多少首を傾げるところがあったのでそのことを今回は書いて見たい。
9条2項論議は主権問題であるという先生のご意見には全く異論はない。後半1/3のところで先生は「交戦権」について述べておられる。その部分を引用すると”憲法の交戦権否認条項は所謂マッカーサー・メモの「将来如何なる日本軍にもrights of belligerency が与えられることはない」との文言に由来している。(中略)憲法草案を起草した当時のGHQ民政局次長ケイディス大佐はこの「交戦権」という学術語が何を意味するか知らなかった。(後略)“とある。
僭越ながら先生の本当のお考はこのようなことではないかと思い本文を書いている。この問題のボタンの掛け違いは「rights of belligerency」というマッカーサー・メモの中にある言葉、ひいてはその日本語訳にあるのではないかと思う。
「rights of belligerency」は日本国憲法の正式翻訳英文にも使われているが、マッカーサー・メモとまったく同じなのである。日本側で「交戦権」と訳したようだがこれは誤訳(意図的かもしれないが)である。マッカーサー・メモにあるrights of belligerencyの意味は正しくは「交戦状態の諸権利」であり「交戦権」ではない。belligerencyという言葉は「交戦状態」で職業軍人であるケイディス大佐がこの言葉が何を意味するか知らない筈はないのである。交戦状態の諸権利とは交戦規定「ROE」(註)を意味している。交戦規定がなければまともな軍隊とは言えない。アメリカの意図は自衛の為の軍隊は持ってもよいが、アメリカに刃向うような精強な軍隊は決して持ってはならぬということだった。憲法をめぐる混乱の多くはこの誤訳にあると思うのだが如何であろうか。
交戦権というのは戦うか戦わぬか自ら決めることで主権があれば当然の権利(主権の一部)である。それを自ら憲法の中に書いて否定するのは正気の沙汰ではない。憲法を押し付けて来た当時のアメリカの意図の如く「日本の軍隊はたとえ自衛の戦いでも交戦状態の諸権利即ちROEは決して持たない」と書いておけば今日までの混乱はなかったのではないかと愚考する次第。当時の外務省の誤訳が恨めしい。いずれにしろ②項は削除して普通の国の様にすべきと思う。①項だけであれば自衛の為の戦力は当然で自衛の為の戦いも当然という国際常識に叶う憲法となるのではないか。
「交戦権」・・・世界の常識?
原点に戻り「交戦権」という言葉を世界ではどの様に捉えているか、改めて考えて見たい。西欧文明において日本人が考えるような「交戦権」という概念は普遍的なものなのかという疑問にたどり着いた。
比較文明学者の梅棹忠雄氏の『文明の生態史観』はユニークな本である。この本によると、ユーラシア大陸の歴史は侵略と闘争の歴史のようである。人々にとって生きる為戦うのは、当たり前のことであった。戦うか逃げるか、自分で判断し行動したのである。人に言われることではなっかた。このような歴史が西欧文明の基礎にある。戦うか戦わないか自分が決めるのは当然のことで「交戦権」などと言う言葉や概念は西欧文明にはもともとなかったのではないかと思う。英語を例にとり調べてみたが、日本人が考える「交戦権」という言葉は見当たらないようだ。和英辞典で探してみると面白いことが分かった。昭和30年頃の和英辞典には「交戦権」は載っていない。版が新しくなると「交戦権」が出てくるが、その訳語はマッカーサー・メモにあるrights of belligerency なのである。rightsと権利が複数形となっている。Belligerencyは交戦状態の意味でrights of belligerencyを交戦権と訳すのは無理がある。憲法制定時の外務省役人の誤訳が現在の憲法問題を迷走させているのだろう。重箱の隅をつつくような議論であるが大事なことではないかと思い敢えてブログに書いた。ご了承いただきたい。
註)ROE:交戦規定(こうせんきてい、Rules of Engagement、以下ROEと表記)とは、軍隊や警察がいつ、どこで、いかなる相手に、どのような武器を使用するかを定めた基準のこと。さらに戦争状態における諸権利(戦時国際法に定められた諸権利、捕虜の取り扱い、身分等)を定めたもの。