「孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように・・・」(ダンマパダ23章330節)
孤独でいることは、必ずしも不幸ではない。
もしかしたら、むしろ幸せに感じる人間だっているかもしれない。
だが
社会から乖離した人間は、果たして本当に幸せになれるのか?
幸せという思い、いや感情すらも存在しないただの無になってしまうのではないのだろうか?
喜びも、悲しみも、怒りも、苦しみも、なにもかも感じなくなってしまうのではないか?
僕はこう思う。
感情は何か外的要因が無ければ発生しないものであると。
自分の行動や考えに干渉(※1)する何かが存在しなければ、喜びや悲しみといった感情は生まれてこないのだと。
幸せも同じだ。何らかの感情が発生することによって生まれるこの気持ち(※2)も、誰かに干渉されなければ絶対に発生しないものである。
孤独こそが幸せだと思う人が時々いるが、それは根本的に間違っていると思う。
幸せというものは、自分に干渉する何かがあって、初めて感じることのできるものだ。
幸せ。それは、自分ひとりでは決して作り上げることのできないものである。
※1 干渉とはもともと「他人のことに立ち入って自分の意思に従わせようとする」という意味であるため、この文章における干渉の使い方は本当は間違っていると思う。
だが、僕はあえてこの言葉を選んだ。誰かが自分に接し、自分に感情が生まれるということは、意思に従わせようとしているわけではないにしろ、その人に何らかの影響をあたえ、何もしなければ発生しないものを発生させたということになると思うからだ。
この何もしなければ発生しないものを発生させることも、「干渉」になるのではないかと思う。
※2 幸せも感情のひとつだととらえられるかもしれないが、僕は、幸せは何らかの感情がある事が最低条件で存在するものであると思う。
よって、幸せを感情と表現するのは少し違う気がする。
とまぁこんな堅苦しいことをかいたけど、結局は「人がいなけりゃ人は幸せになれないよ」ってことです。
僕も昔は、「他人とかかわりを持つより、一人でいたほうが誰からも何も言われないし幸せだろう」と思っていました。
でも、自分を幸せにさせているものは何だろうと考えた時、真っ先に思いついたのは「友達」や「家族」といった、他人のことでした。
そして気付いたのです。
「他人と言う存在」があって、初めて自分は幸せを感じることができるということを。
それくらい「他人という存在」は、自分にとって重要なものなのだと。
だから僕は自分と関ってくれる「他人という存在」を大切にしたいです。
初めての記事が何だかおもっ苦しくて、そしてさらに全てを見透かしたようなことを書いて申し訳ありません。
でもこれからもこういうことをじゃんじゃん書いていきたいと思っています。
哲学的なことを考えるのが好きなのでw
ではまた ノシ
