永瀬博巳の続きを掲載いたします。
彼が次なるチャンスを掴むきっかけは、日本各地に郊外型のSHOPが出始めた頃でもありました。
これからの時代は郊外型の時代になる。と予測し、大きな駐車場を備えたショッピングセンターが広がりつつあるときでもありました。
UNIXがはじめてショッピングセンターに出店したのが1984年ですから、彼が入社した翌年には出店を果たしていたのです。
この時期にまだ、大規模店舗規制法が設定されて、広い土地の有効利用から生まれたSC開発に歯止めがかかる状況もありました。
そんな中、UNIXは郊外型にサロン展開にシフトチェンジをしてターゲットエリアを埼玉県北部から北関東エリアへ市場範囲を広げることになり、その第一号店が熊谷店でした。
その後次なる出店候補地として本庄にデベロッパーが出店をするとの情報をいただき、エリア拡大を目指して出店を決定、永瀬が店長として初めて挑む店舗になりました。
私たちはこの地区でとても差別を受けることとなったのです。
当時、ショッピングセンターを作るには商調協との協議が必要で地元の商業者との協調なくしてショッピングセンターを開設することができません。
そのため、地域の有力者が係わることが多くなりました。
本庄のSCも同様で、地域の有力者が関わったおかげでSCができ、地元優先の出店者同友店会が構成され、よそ者の私たちは村八分になっていたのです。
店長だった永瀬はこの頃、人間的にも成長し、人付き合いもうまくなってきていて、地元の方々とも上手く付き合う事ができました。
しかし、ある事件をきっかけに、私自身がぶちきれて撤退に至ってしまいました。
それは、まさに村八分、「地元で落とした消費は地元に還元」という閉鎖的な考え方が主流で、UNIXのように本社が他地域にある店舗へ、行かないように!
というような差別が始まったのです。
時にはスタッフがお弁当を買いに行くと、よそ者には売らない!
というような、異常とも思える村社会が存在していました。
しかし、永瀬のすごかった所は、このことをまるで苦にしない程に人間的幅を広げていたのです。
また熊谷店は都市計画の収用にあい、この地域への店舗は5年ほどの時間で全て無くなってしまったのです。
そして会社は、新しい時代へと突入してきたのです。
それが大宮への出店でした。