テレビといえば、街頭テレビです。利用駅が高円寺でしたが、その駅前に街頭テレビがあり、夕方になると凄い数の人だかりでいっぱいになりました。

当然人気の一番は力道山でした。彼の活躍で日本中が大騒ぎしていた時代、特に大柄の外国人をバッタバッタと空手チョップでなぎ倒すさまは、当時の日本人にとって最高に気持ちよかったはずです。

 戦後復興から徐々に立ち直りかけてきて、朝鮮特需で景気が一気に上向きになった時代、戦後復興の兆しが見えて来て、庶民にも明るさを感じる時代でした。そんな中での力道山の活躍は日本人に大きな勇気と力を与えていた。

 私は子供の頃から相撲に大きな興味を持っていて、ラジオから流れてくる実況中継を聞くのが好きだった。自分で作った星取表で、実況中継を聞きながら勝敗を記録して行きました。

当時は栃錦・若乃花の二強が全盛期で、もの凄い盛り上がりです。相撲と野球でしたら相撲が私にとっては断然好きなスポーツでした。お陰で難しい漢字を覚えることも出来たのも相撲のお陰です。

 昔のラジオから色々なことが思い出されます。私が特に不思議に思った放送が満州からの引き上げ者の身元捜しの放送でした。

 私の家族はお陰さまで全員無事でしたが当時は、不幸なご家族がたくさんいました、満州の地に夢を描いて渡り、大地の開墾に精を出していた方々が、敗戦と同時に生死の境をさまよいながら、身柄一つで本国に逃げ帰ってくる様は、私にはよく理解できませんでした。

舞鶴港に命からがら帰って来ても、身内と出会うこともままならず、帰国してから家族の行方を探す方々の放送が日々流れていました。

満州からの引き上げのあとは、ロシアに抑留されていた方々の引き上げもありました。とても大変なご苦労をされ、やっと日本の地を迎えられても家族に出会うことの出来なかった人もたくさんいたのです。

 そんな時代を象徴したのが身元捜し放送でした。

ラジオから流れる「東京都杉並区阿佐ヶ谷○丁目○番地」にお住いだった、○○○夫さん、○○×男さんが探しておられます。○○×男さんは。昭和16年に満州に渡り、○○に在住しておりました。その後逃げる途中でお子さんの○子さんと生き別れになり、一昨日舞鶴港に戻ってこられました。○○○夫さんご連絡をお待ちしております。」

このような放送が延々と流れているのです。いつの間にやら耳に付いて、近くの方々だとなんとなく近親間もあり、とても気になった放送でした。

 時には、やっとの思いで抑留先のソ連から帰国したのに、家族は新しい家族と新しい家庭を築き、失意の底で明け暮れる人たちもいました。10年近い抑留生活を送った方もおられ、戦争の傷跡は、本国に残された方だけではありませんでした。

 最近になっても中国から帰国される日本人は少なくなってきました。それは帰国の際、逃げ惑う中、生き別れになった子供達がいかにたくさんいたかです。そんな時代に過ごされた方々には未だに祖国の地を踏むことが出来ないでいるのです。まだまだ戦後が終わっていない!と心の声が聞こえてくるように思います。

「大地の子」「不毛地帯」と、山崎豊子の小説はこの時代をリアルに表現しており、この時代の社会背景を知るにはあまりにも過酷で人間が生きてゆく大切を身に沁みて感じる大作です。

 本当に戦後は大変な時期でした。そんな中では私達家族は自分達の生活を支えることで手一杯、人のことを考える余裕もありませんでした。