そんな志村の時代を経て、小学校5年生の時、杉並の小学校に転校を致しました。弟の小学校入学に合わせるように移転したようです。今回の移転では部屋数がひとつからふたつに増え、6畳と3畳の部屋があり、一部屋余分にあることがとてもうれしくて感動したものでした。


そして三男(誠一)が保育園に入園、その送り迎えの担当が私でした。母が体調を壊して静養したのが杉並に移転したきっかけでもあり、脊髄カリエスを患った母は、腹部に大きなコルセットベルトを締めており、今考えると大変辛かった日々だったと思います。寝たきりの母が私に少しでもその代わりをさせようとするのですが逃げ足の速さは天下一品、出来るだけ家に居つかないことが私の考える全てでしたから、その声は以前にも増して大きくなり、すぐさま新しい寮でも「タツヤ!」の叫び声は有名になりました。

 それはともかくとして、誠一を始めて保育園に連れて行ったときのことです。彼を送り届けて私は学校に行くのですが、なんと初日で彼は脱走!寮に帰って来てしまったのです。なれない土地で不安だったのでしょう。そして彼を預かってくれたのが寮の方々でした。この寮では私達家族は大変お世話になる事になります。とにかく面倒見の良い人たちがたくさんいて、大家族のような暖かさがあり、母が半年も入院をした際には、食事の世話までやって頂きました。本当に感謝いたしております。


 私たち3人兄弟は、引っ越してすぐには新しい寮の子供達とは馴染めませんでした。そんな中、一番下の弟の誠一が、保育園から帰って来てしまう事になることは、今考えれば致し方なかったと思います。4歳の子供からすれば、母はいない、兄達は学校に行ってしまい、取り残されたように感じても不思議がありません。そして新しい環境にすぐには溶け込むことができず、寂しかったはずです。母の病気がその拍車をかけていました。