私が生まれのが、終戦の一月ほど前のことでした。
当時、両親は横浜の店を焼き出され、路頭に迷った結果、母の実家に出産のために居候をしておりました。
当時は東京大空襲のあとで東京は焼け野原でもあり、たまたま母の実家は滝野川にあり、空襲を免れ、無事であったのが幸いして東京で私は生を受けることが出来ました。
 達也との命名をしていただいたのは、今の古川庭園の防空壕で避難生活を送って際、大きなお腹をしていた母が、立ち会った軍人さんから授かった名前だと聞き及んでいます。
 そして1ヵ月後には終戦を迎え、私にとってこの地は出生地としていつまでの心の故郷として滝野川の風景を鮮明に記憶しております。

 故郷と言うものを持たなかった私達家族にとってこの地が故郷と言っても良い土地になっていました。

そして終戦を迎え、父は店を焼き出され居候をしていた母の実家にいつまでも居る訳にも行きませんでした。
しかし終戦の混乱期には食料すらまともに支給されない状況で店を出すことはとても出来る話ではありませんでした。母の実家は滝野川で理容店を経営しており、裕福な家庭でした。戦災に合うこともなく家は残り、家業の理容店は繁盛していました。そんな時にお客様からの紹介で印刷局の厚生施設の理容部門をやらないか!と話があり、父はその話に乗り市ヶ谷にある職場に勤務する事になりました。


続く