日本が縄文時代から弥生時代に移る最大の要因は気候変動です
縄文時代は温暖な気候で、現在より海水面が高く
現在海岸に面した平地の多くは水面下でした
それが、寒冷化とともに、陸地が広がり
海辺から丘陵地に向かい、水田に適した低湿地が出現したのです
寒冷化により、食料調達の困難が生じていた縄文人にとって
本格的な稲作導入による食糧増産は救いの道でした
当然ながら、古墳群のある大阪平野も縄文時代は海の底でした
日本中の海沿いの低地の、ほぼ全てがそうだったのです
ただ、狩猟採取民が、いきなり農耕民族にはなれません
縄文時代には、すでに栽培植物がありました
彼らは純然たる狩猟採集民ではなく、農耕民的な性格も持っていたのです
したがって、条件が整えば
より本格的な農耕民になることに抵抗は少なかったはずです
彼らは、耕作地を広げ、環濠集落を形成しました
これが、弥生時代の始まりです
すでに稲作を知っていた縄文人は、意識的に水田面積を拡大したはずです
したがって、この変化は急激に進んだのです
縄文人達が”意識的に”変化を望んだというのは私の見解です
なぜなら、外部からの影響が考えられない状況で
短期間に、あれほどの大きな変化は理解できないからです
強く意を決しなければならないほど、食糧事情が切迫していたのです
私は、その証拠が、滅亡した南米のタスマニア人ではないかと考えています
タスマニア人には、雪でカマクラや雪だるまを作る文化がありました
すでに寒冷化が進んだ時期の縄文人が
意を決して、村を挙げて南米に移住した・・・というのが私の説です
もし赤道越えに数世代以上を要していたら
日本の雪国の習俗は忘れられたはずだからです
ただし、環濠集落の弥生時代から古墳時代への変化は、大きな飛躍です
これは、内部で独自に起きた革命とは考えにくいので
外部からの影響とみるべきだと思います
まず、あのような巨大な幾何学的土地造成という文化が
それまでの日本にはありません
それに、専門的な戦士という存在も、やはり、ありません
あくまで大陸の影響とみるべきなのです