浜松城の展示を観ながら
私は、ある重大な勘違いをしていたことを知らされました
三方原の戦いのことです
城下を素通りする武田信玄に対し
徳川家康が、少数の兵を率いて、果敢に挑戦を挑んだ戦いです
私は、家康の襲撃を予想した信玄が
鶴翼の陣で迎え撃ち、家康を袋のネズミにしたと思っていました
実際は逆で、少数の家康側が鶴翼の陣で戦いを挑んだのです
迎え撃つ武田勢は、密集隊形である魚鱗の陣です
なんで家康は、少数の兵を、わざわざ散開したのでしょう?
ここからは、私の推理です
家康は、武田軍の周りを、スナイパー(狙撃手)で抱囲したのです
そして、自らは、武田陣に突っ込み、攪乱したのです
いくら寡兵とはいえ
はじめから攪乱目的で動き回れば
信玄は、目立つ位置で軍配を采配し、全軍の指揮をとらなければなりません
そこを狙撃手達は、一斉に、信玄だけを狙って、銃弾を放つのです
少数の兵で、大軍を迎え撃つ時
唯一確実な勝機は、敵の大将を討ち取ることです
これは、家康自身が”桶狭間の戦い”で得た戦訓です
あの時は、圧倒的な大軍で織田信長の尾張に侵攻したにもかかわらず
味方の大将、今川義元が討ち取られてしまったため
全軍が総崩れとなり、家康自身、やっとの思いで逃げおおせたのでした
三方原から浜松城に逃げ帰った家康を、武田勢は追撃しませんでした
家康が城門を開け、中で宴会を開いていたので
これを怪しんだ武田勢が、攻撃を躊躇した・・・などと言われていますが
もちろん、後世の作り話でしょう
この時、すでに武田信玄は死んでいたか
さもなくば、重症を負っていたと考えたら、どうでしょうか?
家康は、配下のスナイパー達から
手応えがあったとの報告を受けていたのです
もしかしたら、それで、武田の追撃は無いと判断し
浜松城で宴会を開いていたのかもしれません
そのことが、後世、変形して言い伝えになったのかもしれないのです
その後、実際に、武田信玄は陣中で亡くなりました
病気が原因とされていますが
そんな瀕死の重病人が、徳川と織田を相手にする大遠征を実行するでしょうか?
武田は、影武者を立て、信玄の死を隠しました
ところが、家康は、直ちに、信玄の死を推察しています
家康の推理の根拠は、何だったのでしょうか?
自分を蹴散らした、あの武田信玄が、すでに死んでいるなどと
なぜ、家康は、予想できたのでしょうか?
誰も、そのことの根拠は示していません
私は、ある重大な勘違いをしていたことを知らされました
三方原の戦いのことです
城下を素通りする武田信玄に対し
徳川家康が、少数の兵を率いて、果敢に挑戦を挑んだ戦いです
私は、家康の襲撃を予想した信玄が
鶴翼の陣で迎え撃ち、家康を袋のネズミにしたと思っていました
実際は逆で、少数の家康側が鶴翼の陣で戦いを挑んだのです
迎え撃つ武田勢は、密集隊形である魚鱗の陣です
なんで家康は、少数の兵を、わざわざ散開したのでしょう?
ここからは、私の推理です
家康は、武田軍の周りを、スナイパー(狙撃手)で抱囲したのです
そして、自らは、武田陣に突っ込み、攪乱したのです
いくら寡兵とはいえ
はじめから攪乱目的で動き回れば
信玄は、目立つ位置で軍配を采配し、全軍の指揮をとらなければなりません
そこを狙撃手達は、一斉に、信玄だけを狙って、銃弾を放つのです
少数の兵で、大軍を迎え撃つ時
唯一確実な勝機は、敵の大将を討ち取ることです
これは、家康自身が”桶狭間の戦い”で得た戦訓です
あの時は、圧倒的な大軍で織田信長の尾張に侵攻したにもかかわらず
味方の大将、今川義元が討ち取られてしまったため
全軍が総崩れとなり、家康自身、やっとの思いで逃げおおせたのでした
三方原から浜松城に逃げ帰った家康を、武田勢は追撃しませんでした
家康が城門を開け、中で宴会を開いていたので
これを怪しんだ武田勢が、攻撃を躊躇した・・・などと言われていますが
もちろん、後世の作り話でしょう
この時、すでに武田信玄は死んでいたか
さもなくば、重症を負っていたと考えたら、どうでしょうか?
家康は、配下のスナイパー達から
手応えがあったとの報告を受けていたのです
もしかしたら、それで、武田の追撃は無いと判断し
浜松城で宴会を開いていたのかもしれません
そのことが、後世、変形して言い伝えになったのかもしれないのです
その後、実際に、武田信玄は陣中で亡くなりました
病気が原因とされていますが
そんな瀕死の重病人が、徳川と織田を相手にする大遠征を実行するでしょうか?
武田は、影武者を立て、信玄の死を隠しました
ところが、家康は、直ちに、信玄の死を推察しています
家康の推理の根拠は、何だったのでしょうか?
自分を蹴散らした、あの武田信玄が、すでに死んでいるなどと
なぜ、家康は、予想できたのでしょうか?
誰も、そのことの根拠は示していません