歴史の考察は、始めると、なかなか止められません
もう、しばらく、お休みするつもりだったのですけれど
今朝になって、また新しいアイデアが出てきたので
続けることにします
織田信長と徳川家康の同盟の基礎は
二人の幼少年期の交友にあるというのが私の説です
これだけなら、私の以前にも、同じ事を言った人はいそうです
ただし、二人は戦国武将ですから
「子供の時、仲良しだったから、これからも仲良くしようね」
と、単純に、お友達になったわけではないでしょう
別の、より戦略的な理由があったはずです
その最大の理由は、信長の濃尾平野北上戦略です
東海道を、東の三河方向では無く、北の美濃に向かう戦略です
当時の信長は、濃尾平野の支配権を確立する戦略を持っていたので
それに集中するため、東の三河との安定したj関係を作りたいと考えたのです
そして、徳川家康となら、それが簡単にできると踏んだのです
徳川家康の立場は、まず”独立”ですから
西の尾張の織田と友好関係が持てるのは、望むところです
その結果、東の今川とは対立することになりますが
家康は、根本的に、今川が嫌いで、織田が好きだったので、迷いません
若き家康は、織田信長に未来を見ていたのです
この二人の「清洲同盟」は、歴史家がそう呼んでいるだけで
清洲城で、両者会談の上、合意文書に調印
・・・などというものではありません
太田牛一の「信長公記」には、そんな場面は一切出てきません
そもそも、徳川との盟約という項目すらありません
「清須同盟」は、いつの間にか、既成事実的に成立しているのです
この点は、機会があれば、別の資料も調べようと思いますが・・・
現代の私の目から見ると
「清洲同盟」は、東海道のど真ん中に位置する尾張と三河の領主が
互いに争うのは止めて、協力して
東海道の覇権を獲得する戦いの基礎としたものです
”東海道の覇権確立”
こそが、尾張と三河の同盟の政治的意味であり
戦国時代に終熄をもたらす、鍵だったのです
主要交通路の安全な往来こそは、天下泰平の現実的証明です
信長も家康も、そうした自覚は無かったでしょうけれど
結果として、その方向に駒を進めていたのでした
、
もう、しばらく、お休みするつもりだったのですけれど
今朝になって、また新しいアイデアが出てきたので
続けることにします
織田信長と徳川家康の同盟の基礎は
二人の幼少年期の交友にあるというのが私の説です
これだけなら、私の以前にも、同じ事を言った人はいそうです
ただし、二人は戦国武将ですから
「子供の時、仲良しだったから、これからも仲良くしようね」
と、単純に、お友達になったわけではないでしょう
別の、より戦略的な理由があったはずです
その最大の理由は、信長の濃尾平野北上戦略です
東海道を、東の三河方向では無く、北の美濃に向かう戦略です
当時の信長は、濃尾平野の支配権を確立する戦略を持っていたので
それに集中するため、東の三河との安定したj関係を作りたいと考えたのです
そして、徳川家康となら、それが簡単にできると踏んだのです
徳川家康の立場は、まず”独立”ですから
西の尾張の織田と友好関係が持てるのは、望むところです
その結果、東の今川とは対立することになりますが
家康は、根本的に、今川が嫌いで、織田が好きだったので、迷いません
若き家康は、織田信長に未来を見ていたのです
この二人の「清洲同盟」は、歴史家がそう呼んでいるだけで
清洲城で、両者会談の上、合意文書に調印
・・・などというものではありません
太田牛一の「信長公記」には、そんな場面は一切出てきません
そもそも、徳川との盟約という項目すらありません
「清須同盟」は、いつの間にか、既成事実的に成立しているのです
この点は、機会があれば、別の資料も調べようと思いますが・・・
現代の私の目から見ると
「清洲同盟」は、東海道のど真ん中に位置する尾張と三河の領主が
互いに争うのは止めて、協力して
東海道の覇権を獲得する戦いの基礎としたものです
”東海道の覇権確立”
こそが、尾張と三河の同盟の政治的意味であり
戦国時代に終熄をもたらす、鍵だったのです
主要交通路の安全な往来こそは、天下泰平の現実的証明です
信長も家康も、そうした自覚は無かったでしょうけれど
結果として、その方向に駒を進めていたのでした
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