「桶狭間の戦い」が終わると
織田信長は、熱田神宮の軍事施設的価値を認識し
要塞化を図るため

「信長塀」

と呼ばれる土塀を作りました
しかし、その後、工事は中断され
中途半端なまま、一部が現在に残されています

何故、信長は、こんなモノを作り
その後、中途半端で工事を止めてしまったのでしょう?

「桶狭間の戦い」の前哨戦となった
激戦の戦場・・・丸根砦、鷲津砦は、その後は使われず
大高城も、捨てられました

織田信長は、三河の徳川家康との同盟を進めるため
三河方面の軍事施設を放棄したのです
信長は、戦後の早い時期から
三河の松平元康(徳川家康)との同盟を考えていて
そのために、三河側から脅威と見えるものは、取り除いたのでした
当然ながら、熱田神宮を要塞化する必要は無いわけです
従って「信長塀」も不要となったのです

「信長屏」を、このように分析したのは
おそらく、私が最初だと思います
熱田神宮のホームページには、そのような解説はありません
私は、実物を見たわけではありませんが、自信があるのです
信長の気持ちが、手に取るように分かるからです

「熱田神宮は要塞化できる!」

そう思って、第一期工事はしたのですが、その後すぐに

「いや、もう、その必要は無い・・・」

と、信長は、考えを変えたのです

織田信長と松平元康(徳川家康)は
「桶狭間の戦い」の時点では、同盟の下話もしていなかったはずです
そのために、丸根砦では、とんでもない激闘をしてしまいました
しかし、戦後の極めて早い時期に、双方、なんらかのアプローチをして
一気に、同盟に進んだのです
まるで、相思相愛のカップルが再会したように・・・

「桶狭間の戦い」は
織田信長の名を天下に知らしめました
同時に、今川氏没落の端緒ともなりました
織田信長が天下人となるための、第一歩となった戦いでした
この戦いの結果如何では、その後の日本の歴史は
まるで違ったものになっていたでしょう

今川義元に対し、奇跡の勝利をおさめたことだけでなく
その後、徳川家康と「清須同盟」を結んだことは
結果として、日本の歴史を決定した大事件でした
「桶狭間の戦い」と「清洲同盟」は、セットで歴史的意味を持つのです

もし熱田神宮の「信長塀」が完成するようなことになっていたら
つまり「清洲同盟」が成立していなかったとしたら、
歴史は、まるで違ったものになっていたわけです
日本三大土塀とも言われる「信長塀」は
未完であることで、歴史の大きな曲がり角を示しているのです

鎌倉幕府を開き、日本を武家社会にした
源頼朝の母は、熱田神宮の大宮司の娘でした
武の最高神を奉る熱田神宮は、武士が日本の歴史を大きく変える時
何か大きな霊力を働かせているもののようです
「信長塀」について考えていると
私には、そのように思えてくるのです・・・