桶狭間で今川義元が討たれた時
徳川家康は、当然自分も討たれるものと覚悟し
自害しようとしました
当時の常識では、当然、そうなるのです

元々、三河の松平家の家臣団は、まとまっておらず
家臣の半分は、尾張の織田家に与したいと考えていました

家康の祖父も父も
織田家に通じた家臣の裏切りにより
殺害されたと言われています
家康の実母も、父親が織田家側についたので
家康が3才の時に、離縁されているのです

そもそも、家康自身が
6才の時に、駿河の今川家に人質に送られる途中で
同行した松平家の家臣の裏切りにより
尾張の織田家に運ばれてしまったのです
その事実を織田家から知らされると
家康の父親は

「殺すなり、なんなり、勝手にしろ」

と返事をしています
家康は、6才にして
父親からも捨てられてしまったのです

尾張で生かされていた家康は
それから2年後、人質交換で
織田家から、駿河の今川家に送られました

今川義元が討たれると
岡崎城にいた今川の代官は、駿河に逃げ帰り
空になった岡崎城に、家康は入ったのです
自害しないで正解でした
あっけなく所領に復帰し、岡崎城主になりました
そして何故か、織田の軍勢の攻撃はありませんでした