縄文時代の矢じりと弥生時代の矢じりとを比べると
弥生時代の矢じりは大きくなっています

なぜでしょうか?

縄文時代の矢じりは、獲物を獲るためのものでした
これに対し、弥生時代の矢じりは
人を殺すための道具となったからです
そのために、矢じりが大型化したのです

人間の体力も知力も
本来は、自然の中で、人間が生き抜くための道具でした
それが、いつの間にか
人間と人間との闘いに勝つための道具となってしまったのです
弓矢の用途が、狩猟の道具から、兵器へと変わったように・・・

現代における、人と人との闘いは、けして殺人を意味しません
戦争と死刑以外には、現代人は殺人を認めません
現代人の闘いは、スポーツをはじめとして、すべてゲームです
ゲームですから、当然ながら勝者と敗者がいますが
敗者が死に至ることはありません

ただし
スポーツの熱狂を支えるものは人間の闘争本能です
本質的には、敵を倒そうとする情熱です
その中には殺害の意思も含まれます

食糧として動物を殺害することは
人間が生きていくために、やむを得ぬ行為でした
そして、人間が人間を殺す行為も
残念ながら、人間が生きていくためには、やむを得ぬ行為でした
人類の歴史には、殺さなければ殺されるという状況があったからです

こうして現在、我々が生きていられるのも
我々の先祖が、殺された側ではなく
殺した側にいたからだと言えなくもありません・・・

法的な解釈や、道徳的な正義とは別にして
人間が人間を殺す行為は
過去において、人類には不可避なことでした

人間は、人間を殺すことによって、生き延びてきたのです
そして、多くの民族、部族が
殺されることによって亡びていきました
人間存在そのものに、ある種の罪深さがあるとも言えます