天才とも革命児と呼ぶべき織田信長です
さらに驚くべきは、彼の人間観です
織田信長ほど、先入観にとらわれず、人を見た人はいません

私が知る限りでは
織田信長に近しい人の、信長との初対面の時の立場は

徳川家康は、誘拐された人質
豊臣秀吉は、猿のような顔をした足軽
明智光秀は、細川家の足軽
弥助は、イエズス会の宣教師が連れてきた黒人奴隷

です

普通なら、まともに相手にされないような人々に
信長は、親身に接し
取り立て、出世させ、能力を発揮させたのです

信長の周囲にいた人のすべては
そのように、信長から見られ、扱われたはずです
多くの人は、心から信長に感謝し、彼を慕い続けたはずです

織田信長の性格といいますと
私は、厳格で短気という印象を持っていました
ある種の残虐性も・・・
しかし、よく考えてみれば、時は戦国の世であり
豊臣秀吉や徳川家康だって、残虐行為はしています
信長だけが例外というわけにはいきません

信長のことや、戦国時代の話しをしている時に
ある人は

「荒れた学校を建て直すようなものですね」

と、言いました

よい例えだと思いました

自発的にルールを守ることができず
話し合いでは解決できないから・・・”乱世”なのです
社会全体が乱れ、秩序が失われた状態では
恐怖を伴う、徹底的な実行力が必要とされたのです

信長と敵対する立場の者からすると
信長は恐ろしい存在でした
しかし、信長の周囲で、信長のために働いた者達にとっては
信長は、とても優しく、頼りがいのある指導者だったはずなのです
敵の多かった信長は
また、それ以上に頼もしい味方がいたのですから・・・

信長が、わずかな供回りだけを従えて本能寺にいたことを
信長の油断であると考える人は多いです
私もはじめは、そのように考えていました
しかし、調べてみると、信長はいつもこんな調子だったようです
あまり身辺警護に気を遣わず、少人数を従えて、身軽に動いています
彼は、自分が身内から命を狙われる危険など
まるで考えたことが無いようなのです

甲斐の武田を亡ぼした時も
わずかな供回りだけを従えて、家康の所領を見物しています
そんな前例もあるわけですから
「本能寺の変」の時も
いつもの信長スタイルだったと考えられるのです

織田信長といえば、なんとなく敵が多く
いつもピリピリしていたような想像をしてしまいますが
実際には、周囲の者から慕われ、忠誠を尽くされ
普段は、身の危険など、感じたこともなく
大した護衛も付けず、悠々と過ごしていた男だったのでしょう