明智光秀という人物を、どのように解釈すべきでしょうか?

明智光秀は、戦も上手なら、朝廷の儀式にも通じ
何事も段取りよくこなし
織田信長からは、最大の評価を得た武将でした

学者達は明智光秀を”近畿管領”と呼んでいいといいます
そのような名称の役職はありませんが
滝川一益を”関東管領”と呼ぶなら
明智光秀は”近畿管領”と呼ぶに相応しい地位だからです
近畿地方の大名達は、組下や与力と呼ばれ
明智光秀の指揮下に入るとされていたからです

光秀の弱点は、人の気持ちを読めなかったことです

本能寺の変で信長を討つことに成功したにもかかわらず
細川藤孝・忠興父子の支持は得られませんでした
いくら待っても、筒井順慶は、結局、現れませんでした
摂津衆は、高山右近をはじめ、全てが敵に回りました
光秀に従った者は、公家の吉田兼見や近衛前久だけでした
しかし、公家というのは、その時点での有力者になびく者です・・・

そればかりではありません
イエズス会の宣教師オルガンティーノは
明智光秀の家臣に助けられたにもかかわらず
光秀を討つように、高山右近に命じています

光秀がキリスト教に好意的であったことは
細川忠興に嫁いだ娘の玉が、やがてキリスト教に帰依し

”細川ガラシャ”

となったことでもあきらかです

それでも、明智光秀は、イエズス会関係者にまで裏切られたのです

足軽だった明智光秀を足利義昭の家臣として
幕府の役人としての立身出世の道にのせたのは細川藤孝です
その藤孝を与力として、自分の目下に置き
しかも息子の細川忠興に娘を娶らせるという行為を
それが織田信長の意向であったとして
明智光秀は、何も感じていなかったのでしょうか?

明智光秀には、細川藤孝の気持ちを忖度した気配がありません
自分のやることには、当然、ついて来ると思っていたようです
実際には、細川藤孝は、光秀からの協力要請を拒否します
その間のやりとりの証拠となる手紙類は、すべて破却しています
現在残っている細川家文書の信用度は
研究者からは、疑問符をつけられています

優秀なはずの明智光秀は
なぜか、人の心をとみ間違えてしまう人間でした