天正10年3月、武田氏を亡ぼすと
もう、織田信長には怖いものはありませんでした
信長の根拠地を直接脅かす勢力は
日本国内には存在しなくなったのです
越後の上杉、小田原の北条、中国の毛利・・・
いずれも遠国の大名であり
強大になった織田軍団に、攻勢をかける力はありません
彼らを屈服させるのは、時間の問題でした
織田信長は、朝廷に対し傲慢な要求を突きつけます
「三職推任」
太政大臣、関白、征夷大将軍
この三つの地位のすべての推薦状を出せ
好きな地位を俺が選ぶ・・・というわけです
朝廷にとってみれば、耐えがたい屈辱です
近衛前久にとっては、信長に太政大臣の地位を与えるためには
自分が、その地位を辞任する必要さえありました
さらに、信長は天皇後継問題にまで、口を挟むようになりました
もはや、朝廷にとって我慢の限界でした
しかも、さらに切実な問題が発生したのです
「暦」
をどうするかです
織田信長が領国の尾張で使っていたのは「三島暦」でした
三嶋大社が発行しているもので、源頼朝より発行を命じられた木版の暦です
三島暦という言葉には、木版の暦という意味もあるほどで
それだけ広く普及した暦だったのです
旧暦では
29日の小の月と30日の大の月が交互に続き
12ヶ月が354日になります
月の満ち欠けは、だいたい29、5日周期ですから
月を基準に暦を作ると、こうなるのです
このままにしておきますと、月がだんだんずれて
正月が夏になったり、8月が真冬になったりしてしまいます
そこで約3年に1回”閏月”を入れ、調整するのです
閏月を何処に入れるのかは、天体観測によって決めるため
計算や文書による明確な基準がありませんでした
朝廷の暦の”天正11年1月”は
織田信長の使う三島暦では”天正10年閏12月”となっていたのです
信長は、朝廷にも、この暦を使わせようとしました
「暦」は朝廷の権威の最後の拠り所です
これを否定されては、もはや朝廷の権威の消滅です
これが別の月ならまだしも
1月と12月の違いでは、年度も変わってしまいますし
それよりなにより、朝廷は
半年先の正月の行事の予定も立てられなくなってしまったのです
これは実に切実な問題でした・・・
もう、織田信長には怖いものはありませんでした
信長の根拠地を直接脅かす勢力は
日本国内には存在しなくなったのです
越後の上杉、小田原の北条、中国の毛利・・・
いずれも遠国の大名であり
強大になった織田軍団に、攻勢をかける力はありません
彼らを屈服させるのは、時間の問題でした
織田信長は、朝廷に対し傲慢な要求を突きつけます
「三職推任」
太政大臣、関白、征夷大将軍
この三つの地位のすべての推薦状を出せ
好きな地位を俺が選ぶ・・・というわけです
朝廷にとってみれば、耐えがたい屈辱です
近衛前久にとっては、信長に太政大臣の地位を与えるためには
自分が、その地位を辞任する必要さえありました
さらに、信長は天皇後継問題にまで、口を挟むようになりました
もはや、朝廷にとって我慢の限界でした
しかも、さらに切実な問題が発生したのです
「暦」
をどうするかです
織田信長が領国の尾張で使っていたのは「三島暦」でした
三嶋大社が発行しているもので、源頼朝より発行を命じられた木版の暦です
三島暦という言葉には、木版の暦という意味もあるほどで
それだけ広く普及した暦だったのです
旧暦では
29日の小の月と30日の大の月が交互に続き
12ヶ月が354日になります
月の満ち欠けは、だいたい29、5日周期ですから
月を基準に暦を作ると、こうなるのです
このままにしておきますと、月がだんだんずれて
正月が夏になったり、8月が真冬になったりしてしまいます
そこで約3年に1回”閏月”を入れ、調整するのです
閏月を何処に入れるのかは、天体観測によって決めるため
計算や文書による明確な基準がありませんでした
朝廷の暦の”天正11年1月”は
織田信長の使う三島暦では”天正10年閏12月”となっていたのです
信長は、朝廷にも、この暦を使わせようとしました
「暦」は朝廷の権威の最後の拠り所です
これを否定されては、もはや朝廷の権威の消滅です
これが別の月ならまだしも
1月と12月の違いでは、年度も変わってしまいますし
それよりなにより、朝廷は
半年先の正月の行事の予定も立てられなくなってしまったのです
これは実に切実な問題でした・・・