裏切りにより、命運を断たれたのが明智光秀です
天運もまた、彼に味方しませんでした
摂津衆と呼ばれる武士団がいました
摂津の辺りの領主です
池田恒興、中川清秀、高山右近などです
彼らは組下といって、光秀の指揮下に入るべき武士団でした
最高権力者である織田信長を、殺してしまった明智光秀に対し
どのように対処すべきか、摂津衆としては微妙な立場です
そんな彼らの中に
絶対に光秀には協力しないと決意していた武将がいます
”高山右近”
です
イエズス会の宣教師オルガンティーノは
安土の教会にいたところを、本能寺の変の後の混乱の中
盗賊に騙されて、琵琶湖の中の島に監禁されてしまいました
それを救ったのは光秀の家臣でした
光秀の小姓は
高山右近説得のための書状をオルガンティーノに書かせ
わざわざ、自分で右近のもとに届けました
その手紙には、日本語では
「光秀に協力せよ」
と書かれていたのですが
ポルトガル語では、その反対の意味が書かれていたのでした
イエズス会の庇護者であった信長を討った光秀を
オルガンチェイーノは許さなかったのです
光秀の小姓はポルトガル語は読めませんでした
キリシタンであった高山右近は、ポルトガル語が読めたのでした
その手紙の中には、イエズス会への指示もあったでしょう
イエズス会は、高山右近に、できるだけの武器弾薬を援助したはずです
6月12日、そんなこととは知らず
明智光秀の軍勢は、高山右近の軍勢に近付きます
高山右近は、明智の軍勢を射程距離まで引きつけると
歩兵達に、馬上の将士を狙って、一斉射撃を命じたのです
光秀軍は大混乱に陥り、ただちに退却せざるを得ませんでした
この戦闘は、兼見日記にも記録されていて
銃声が聞こえ、歩兵同士の戦いがあった・・・と書かれています
なんだか小競り合いの様な感じですが
イエズス会側の記録では、高山右近側の死者1名に対し
明智側は、高貴な武士だけでも200名が死んだとされているのです
この戦果を見て明らかなことは
これが奇襲であり、おそらく、だまし討ちであったことです
戦死者数が極端に偏っていることは
乱戦ではなく、一方的な銃撃であったことを示しています
明智方は、準備がなかったため、急ぎ撤退せざるを得なかったのです
そうした事情により、戦闘そのものは短時間で終わった・・・
銃声が聞こえたかと思ったら、すぐにやんだので
京都の人々は、これを単なる歩兵同士の小競り合いと解釈したのです
実際は、指揮官クラスの武士が200名以上死んだわけで
明智軍は壊滅的打撃を受けたわけです
6月13日の山崎の合戦を前にして
すでに明智光秀の軍勢は、士気も戦闘能力も失われてしまったのです
羽柴秀吉の軍勢は、長距離行軍で、やっと山崎までたどり着きました
疲れ切っており、戦闘能力はありませんでしたから
実際に明智軍を打ち負かしたのは
高山右近をはじめとする、摂津衆だったのです
天運もまた、彼に味方しませんでした
摂津衆と呼ばれる武士団がいました
摂津の辺りの領主です
池田恒興、中川清秀、高山右近などです
彼らは組下といって、光秀の指揮下に入るべき武士団でした
最高権力者である織田信長を、殺してしまった明智光秀に対し
どのように対処すべきか、摂津衆としては微妙な立場です
そんな彼らの中に
絶対に光秀には協力しないと決意していた武将がいます
”高山右近”
です
イエズス会の宣教師オルガンティーノは
安土の教会にいたところを、本能寺の変の後の混乱の中
盗賊に騙されて、琵琶湖の中の島に監禁されてしまいました
それを救ったのは光秀の家臣でした
光秀の小姓は
高山右近説得のための書状をオルガンティーノに書かせ
わざわざ、自分で右近のもとに届けました
その手紙には、日本語では
「光秀に協力せよ」
と書かれていたのですが
ポルトガル語では、その反対の意味が書かれていたのでした
イエズス会の庇護者であった信長を討った光秀を
オルガンチェイーノは許さなかったのです
光秀の小姓はポルトガル語は読めませんでした
キリシタンであった高山右近は、ポルトガル語が読めたのでした
その手紙の中には、イエズス会への指示もあったでしょう
イエズス会は、高山右近に、できるだけの武器弾薬を援助したはずです
6月12日、そんなこととは知らず
明智光秀の軍勢は、高山右近の軍勢に近付きます
高山右近は、明智の軍勢を射程距離まで引きつけると
歩兵達に、馬上の将士を狙って、一斉射撃を命じたのです
光秀軍は大混乱に陥り、ただちに退却せざるを得ませんでした
この戦闘は、兼見日記にも記録されていて
銃声が聞こえ、歩兵同士の戦いがあった・・・と書かれています
なんだか小競り合いの様な感じですが
イエズス会側の記録では、高山右近側の死者1名に対し
明智側は、高貴な武士だけでも200名が死んだとされているのです
この戦果を見て明らかなことは
これが奇襲であり、おそらく、だまし討ちであったことです
戦死者数が極端に偏っていることは
乱戦ではなく、一方的な銃撃であったことを示しています
明智方は、準備がなかったため、急ぎ撤退せざるを得なかったのです
そうした事情により、戦闘そのものは短時間で終わった・・・
銃声が聞こえたかと思ったら、すぐにやんだので
京都の人々は、これを単なる歩兵同士の小競り合いと解釈したのです
実際は、指揮官クラスの武士が200名以上死んだわけで
明智軍は壊滅的打撃を受けたわけです
6月13日の山崎の合戦を前にして
すでに明智光秀の軍勢は、士気も戦闘能力も失われてしまったのです
羽柴秀吉の軍勢は、長距離行軍で、やっと山崎までたどり着きました
疲れ切っており、戦闘能力はありませんでしたから
実際に明智軍を打ち負かしたのは
高山右近をはじめとする、摂津衆だったのです