旧暦の天正10年6月2日
京都、本能寺は、早朝から周囲を軍勢に包囲されました

この日の茶会のために、安土城から
貴重な34点の茶道具を持ち込んでいた信長は
近侍の者に、長男信忠の軍勢かと訊ねます
信忠も京都にいたからです

「明智の軍勢のようです」

という返答を聞くと、信長は

「是非もない」

と言ったということです

この言葉の正確な意味は、私には分かりません

「ならば、何をしても無駄だ」

という意味に解釈しています
明智光秀に抱囲された以上、もはや助かるまいという
信長の覚悟の言葉だと思っています

さらに

「こうなったのは、自分に原因がある」

そういう意味のことを近習に語っています

信長は弓をとり、自ら矢を射かけます
信長の引きが強かったのか、弓の整備が悪かったのか
3本の弓は、すべて弦が切れてしまいました

弓が使えなくなると
信長は、槍をもって闘おうとしました
しかし肘に銃弾を受け、屋内に引き下がりました

この間、再三にわたり、女達には逃げるように命じています
黒人の小姓、弥助は、二条御所に逃がしています
なぜ二条御所まで逃げられたのかは、よく分かりません
身長6尺2寸(188㎝)の黒いアスリートの疾駆を
誰も止められなかったのかもしれません・・・

信長は、近習の者達に
自分の遺体は焼くようにと命じ、自害しました

以上が、私の知り得た
「本能寺の変」当日の織田信長の動きです
同日、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めしながら毛利勢と対峙し
徳川家康は、茶会に参加すべく、堺から本能寺に向かっていました