先日来

「本能寺の変」

について考えているうちに
ついに6月になってしまいました
旧暦と新暦の違いはありますが
6月2日が「本能寺の変」の当日です
そろそろ、書き始めましょう

「本能寺の変」は、突然、織田政権を消滅させました
もし、この事変が無ければ、織田政権は続いていたでしょう
その意味では、とても重要な事変です

それでは、事変が無かったとして
その後、織田政権は長く存続したでしょうか?
私は、そうは考えません
織田政権は、すでに、あちこちが、ひび割れていたのです

その重要な転機の一つが
天正5年7月、ちょうど本能寺の変の5年前に起きた
秀吉抗命事件です

信長の命により、柴田勝家の援軍に向かった秀吉は
勝家と仲違いし、勝手に帰還してしまったのです
その後、柴田勝家は上杉謙信に敗れています(手取川の戦い)
信長は激怒しましたが、結局、秀吉は許されます

抗命であり、戦線離脱、敵前逃亡です
こうした行為を厳しく処罰できなかったところに
私は、織田政権の陰りをみます

この時の織田信長の怒りは相当なものだったはずです
しかし、信長には、秀吉を罰することが出来ませんでした

十分な実力を備えた秀吉に懲罰を与えるためには
織田軍団の精鋭を結集しなければならなかったでしょう
そんなことをすれば
天下統一の夢は、たちまち消えてしまったことでしょう

織田信長は、秀吉に懲罰を与えることなく
秀吉には、毛利一族が支配する中国攻めを命じます
秀吉は、この命令に嬉々として従い、中国地方を侵攻していきます

これは、かなり奇妙なことです
中国地方は広く、毛利一族は強大です
その敵に対し、秀吉一人だけに対処をさせるというのは異常です
武田攻めには、織田軍団の精強を結集したというのに!

毛利は、領地も勢力も、武田より巨大です
この強大な敵に対し、秀吉軍団だけで当たらせるということは
それ自体が、秀吉に対する懲罰であったと考えることも出来ます

不思議なことは、まだあります
5年もの間、秀吉は、毛利の本隊と相まみえることなく
確実に支配地を増やしていったことです