昨夜、戦国武士の行動原理についてブログに書きました
これが、なかなか好評です
そこで、続きを少し
まず、武士というのは、農地の管理者だということです
農産物は、田や畑にあるため、簡単に盗むことも荒らすことも出来ます
農地も農業も、武力が無ければ守れません
したがって、農業社会は武力とセットで発達するということです
そして、農地は、原則として、平地にあるということです
・・・以上を抑えておいてほしいのです
日本が本格的な農業社会になったのは平安時代からです
農業を中心に、税制や社会制度が作り上げられました
当初は公地公民であり、農地も農民も国家に属するものでした
しかし、この制度は上手くいきませんでした
公地公民の制度は、なし崩し的に崩壊し
農地の私有制が一般化しました
そして有力者は、積極的に農地の開発をしたのです
その結果、日本全国に、広大な農地が誕生したのでした
これが、日本が武家社会となった根本的な原因です
当初は優位にあった京都盆地や周辺の農業生産力も
全国的に見れば、特に優位に立てるものではなくなってしまったからです
その結果、京都の支配者は
実力では、日本全国を支配することが出来なくなったのです
初めて武家政権を打ち立てた平家は
農業の重要性の認識がありませんでした
武力で京都の朝廷を支配すれば、それで政権を維持できると考えたのです
しかし、それが上手くいかないことに、後で気付いたのです
経済的な優位がなければ、武士達を支配できないことを
平家は、経済的優位を貿易に求めました
京都周辺では、農地の新規開発の余地が少なかったからでしょう
平清盛は、わざわざ神戸あたりに首都を移してまで、貿易立国を目指しました
しかし、これは上手くいかず、すぐに取り止めになりました
実体経済の中心が農業であった時代に
平清盛は、貨幣経済で巨富を生む貿易に着目したわけですが
結果としては、上手くいかなかったのです
同じことは、京都に政権をおいた、足利幕府にも言えます
彼らも、農業よりも貨幣経済に着目し
貿易による富で政権を維持しようと考えました
そのためシナの皇帝から
「日本国王」
の称号をもらうような国辱行為までしました
すべては貿易のためです
それでもやはり、政権は弱体のままであり
衰弱するごとく、亡びました
源頼朝は、京都を無視し、鎌倉を政権の中心としました
関東の武士団、すなわち、関東の御家人達が、頼朝を支えたのです
頼朝は
社会的実力は農業生産力にあること
農業生産を支配する者が武士であること
そして、関東地方の農業生産力が、関西を上回っていること
・・・を理解していたのです
関東武士団をおさえ、関東に政権の中心を置けば
日本全国を支配できることを、頼朝は洞察していたのです
本当の意味の武家社会は鎌倉時代に始まりました
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、多くの才能の持ち主でしたが
何よりも、恐るべき政治的天才であったことは間違いありません
これが、なかなか好評です
そこで、続きを少し
まず、武士というのは、農地の管理者だということです
農産物は、田や畑にあるため、簡単に盗むことも荒らすことも出来ます
農地も農業も、武力が無ければ守れません
したがって、農業社会は武力とセットで発達するということです
そして、農地は、原則として、平地にあるということです
・・・以上を抑えておいてほしいのです
日本が本格的な農業社会になったのは平安時代からです
農業を中心に、税制や社会制度が作り上げられました
当初は公地公民であり、農地も農民も国家に属するものでした
しかし、この制度は上手くいきませんでした
公地公民の制度は、なし崩し的に崩壊し
農地の私有制が一般化しました
そして有力者は、積極的に農地の開発をしたのです
その結果、日本全国に、広大な農地が誕生したのでした
これが、日本が武家社会となった根本的な原因です
当初は優位にあった京都盆地や周辺の農業生産力も
全国的に見れば、特に優位に立てるものではなくなってしまったからです
その結果、京都の支配者は
実力では、日本全国を支配することが出来なくなったのです
初めて武家政権を打ち立てた平家は
農業の重要性の認識がありませんでした
武力で京都の朝廷を支配すれば、それで政権を維持できると考えたのです
しかし、それが上手くいかないことに、後で気付いたのです
経済的な優位がなければ、武士達を支配できないことを
平家は、経済的優位を貿易に求めました
京都周辺では、農地の新規開発の余地が少なかったからでしょう
平清盛は、わざわざ神戸あたりに首都を移してまで、貿易立国を目指しました
しかし、これは上手くいかず、すぐに取り止めになりました
実体経済の中心が農業であった時代に
平清盛は、貨幣経済で巨富を生む貿易に着目したわけですが
結果としては、上手くいかなかったのです
同じことは、京都に政権をおいた、足利幕府にも言えます
彼らも、農業よりも貨幣経済に着目し
貿易による富で政権を維持しようと考えました
そのためシナの皇帝から
「日本国王」
の称号をもらうような国辱行為までしました
すべては貿易のためです
それでもやはり、政権は弱体のままであり
衰弱するごとく、亡びました
源頼朝は、京都を無視し、鎌倉を政権の中心としました
関東の武士団、すなわち、関東の御家人達が、頼朝を支えたのです
頼朝は
社会的実力は農業生産力にあること
農業生産を支配する者が武士であること
そして、関東地方の農業生産力が、関西を上回っていること
・・・を理解していたのです
関東武士団をおさえ、関東に政権の中心を置けば
日本全国を支配できることを、頼朝は洞察していたのです
本当の意味の武家社会は鎌倉時代に始まりました
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、多くの才能の持ち主でしたが
何よりも、恐るべき政治的天才であったことは間違いありません