私が高校生の頃
田中角栄は内閣総理大臣でした
オイルショックと、それに続く狂乱物価によって
けして評判の良い政治家ではありませんでした
その頃の正月
父は、新潟から祖父宛に届いた年賀状を私に示して
「この人は田中角栄の従兄だ、話し方なんかそっくりだぞ」
と、私に語ったことがありました
その人が我が家と、どういう関係にあるのか、私は知りませんでした
父も詳しくは話さなかったと思います
そのことを私がおぼろげながら知るのは
私が最初のマンションを田中土建で建てた時からのことです
すでに引退されていた田中秀男さんは
わざわざ新潟から我が家においでになりました
残念ながら、私の留守の時でしたので
私は、お会いすることができませんでした
しばらく後、大きな菓子折を持った老婦人が
我が家に訪ねてきたことがありました
私は庭にいて、横目で見ただけでした
両親か祖父母が応対していたと思います
後で聞くところでは、この女性は田中秀男さんの愛人だった人だそうです
彼女は、こちらに住んでいるとのことでした
父や祖父母は旧知であり、まさに家族ぐるみの付き合いだったのです
なぜ、田中秀男さんは、そんなにまで我が家と親しくしたのでしょう
父の見るところでは
祖父と田中秀男さんは、とても気の合う仲だったそうです
父の、田中秀男さんの印象は、
田中角栄の従兄というより、兄弟という方がぴったりくるほど
よく似ていたということです
「顔もしゃべり方もそっくりだ」
というのが、父の印象です
私が最初のマンションを建てたのは昭和60年です
すでに田中角栄の政界での影響力は失われていた時期です
あれから合計7棟のマンションを、私は田中土建に発注しました
思えば、我が家と田中土建の関係は
政界での田中角栄の全盛期がすっぽり抜け落ちています
田中角栄全盛期の当時は
我が家では、田中角栄の縁者と我が家の関係が話題になることは
ほとんどありませんでした
私の記憶では、父が話した年賀状の一件だけです
祖父母からは。いっさい何も、聞いたことがありません
祖父母にしてみれば
それは、戦後の一時期、苦しい中を
庶民が、互いに助け合った思い出であり
それ以上でも、それ以下でもなかった、ということなのでしょう
田中秀男さんが亡くなった時
すでに高齢の祖父を、新潟での葬儀に参列させることはできませんでしたが
私は、田中土建の人に頼んで、祖父の名前で花輪を出してもらいました
田中角栄は内閣総理大臣でした
オイルショックと、それに続く狂乱物価によって
けして評判の良い政治家ではありませんでした
その頃の正月
父は、新潟から祖父宛に届いた年賀状を私に示して
「この人は田中角栄の従兄だ、話し方なんかそっくりだぞ」
と、私に語ったことがありました
その人が我が家と、どういう関係にあるのか、私は知りませんでした
父も詳しくは話さなかったと思います
そのことを私がおぼろげながら知るのは
私が最初のマンションを田中土建で建てた時からのことです
すでに引退されていた田中秀男さんは
わざわざ新潟から我が家においでになりました
残念ながら、私の留守の時でしたので
私は、お会いすることができませんでした
しばらく後、大きな菓子折を持った老婦人が
我が家に訪ねてきたことがありました
私は庭にいて、横目で見ただけでした
両親か祖父母が応対していたと思います
後で聞くところでは、この女性は田中秀男さんの愛人だった人だそうです
彼女は、こちらに住んでいるとのことでした
父や祖父母は旧知であり、まさに家族ぐるみの付き合いだったのです
なぜ、田中秀男さんは、そんなにまで我が家と親しくしたのでしょう
父の見るところでは
祖父と田中秀男さんは、とても気の合う仲だったそうです
父の、田中秀男さんの印象は、
田中角栄の従兄というより、兄弟という方がぴったりくるほど
よく似ていたということです
「顔もしゃべり方もそっくりだ」
というのが、父の印象です
私が最初のマンションを建てたのは昭和60年です
すでに田中角栄の政界での影響力は失われていた時期です
あれから合計7棟のマンションを、私は田中土建に発注しました
思えば、我が家と田中土建の関係は
政界での田中角栄の全盛期がすっぽり抜け落ちています
田中角栄全盛期の当時は
我が家では、田中角栄の縁者と我が家の関係が話題になることは
ほとんどありませんでした
私の記憶では、父が話した年賀状の一件だけです
祖父母からは。いっさい何も、聞いたことがありません
祖父母にしてみれば
それは、戦後の一時期、苦しい中を
庶民が、互いに助け合った思い出であり
それ以上でも、それ以下でもなかった、ということなのでしょう
田中秀男さんが亡くなった時
すでに高齢の祖父を、新潟での葬儀に参列させることはできませんでしたが
私は、田中土建の人に頼んで、祖父の名前で花輪を出してもらいました