イジメの問題を考えるときに
これは加害者の問題だということが大事です
イジメ問題の深刻さもここにあります
加害者が多数だということです

大袈裟なたとえですが
戦争責任や国家犯罪の裁きにも似た難しさがあります
民主主義国家が戦争を起こした場合
戦争責任は戦争指導者だけの責任に帰すわけにはいきません
国民全員が、何らかの責任を負わされることになります
ということは、誰も責任をとらないということでもあります

イジメ問題で加害者の責任が追求されることが少ないのは
場合によると、クラスの中の圧倒的多数が加害者となるからです
誰の責任であるか、曖昧になるからです

さらに悪いことには
多数派は口裏合わせをして
嘘をでっち上げることさえします

次男の濡れ衣事件の時も
次男と加害少年とは接点がありませんでした
次男が主張した、その当たり前の事実ですら
別の生徒の、次男と加害少年が話しているのを見たという嘘証言を
担任や学年主任が信じてしまったことにより
事態が悪い方へ向かってしまったのです
この嘘証言をした生徒の名前は分かっていますが
学校側が彼の責任を追求した形跡がありません
濡れ衣事件は、イジメの発端ではなく
イジメの一環であったのかもしれないのです

人間の集団がある方向に流れ始めると
個々の人間は、それに異を唱えることが難しくなります
自己の良心を放棄し、集団の流れに身を任せてしまうのです

哲学者のハンナ・アレントは
ナチスの巨悪を実行したのは悪魔の様な人物では無く
小心な小役人であると言ったそうです
私も、そう思います
小役人の保身が、巨悪を放置し拡大するのです
イジメの拡大も、個々の生徒の保身が、事態を放置し拡大するのです