オリンピックを東京で開催することに、私は特段の関心はありません
むしろ、そのために金を掛けた招致活動をしなければならないとすれば
私は反対です

東京オリンピックは1964年に開催されました
私にとって”東京オリンピック”と呼ぶものはあの大会だけです
ほかに”東京オリンピック”は要りません

石原知事がぶち上げ、猪瀬知事が継承した事業ですけれど
一度やったことを、もう一度やろうというのは
二人の作家にしては、発想が貧困です

スポーツは民主主義の文化です
私は、そのことを良く理解しています
スポーツ振興は重要であると、信念をもって主張しています

にもかかわらず、オリンピック招致活動に興味が無いのは
そこに嫌らしい利権の匂いを嗅ぐからです

長野オリンピックに関する帳簿は全て失われたそうです
何者かが処分してしまったわけです
そこに外部に知られてはまずい金の動きがあったからです
しかし、そのことで、当時の市長や知事が責任をとったという話は聞きません

民間人や私企業が、帳簿を付けなかったり
必要書類を処分してしまったりしたら犯罪です
なぜ公的機関が公務に関する書類を廃棄しても罪にならないのでしょう?

証拠が無いから立件できないなどと、もっともらしいことを言う人がいますが
そんなら民間人も同じことをすればいいわけです
民間人だけを罰するというのでは、日本は民主主義国ではないということになります

民主主義の国でないならオリンピックを開催する資格はありません
スポーツは民主主義の文化なのですから

ソ連も中国もオリンピックを開催しましたが
あんなものはオリンピックではないのです・・・スポーツではないからです
それらの国に民主主義がないからです・・・ただのお祭り騒ぎです
北京オリンピックは開会式が作りものの映像でした

スポーツにはルールがあり
それを監視するための正式の審判がいなければなりません
さらにそれを”観客”が監視します
すなわち、スポーツ自体が民主主義の構造をもっているのです

スポーツを体育の延長の様に考えている人が多いのですが、それは間違いです
スポーツはルールの下に堂々と戦うゲームであり
”観客”が観戦できなければならないのです
”観客”は一般大衆でなければなりません

日本のスポーツ文化がいま一つ貧困なのは”観客”の存在が軽視されているからです
民主主義の精神が薄弱なのです、そのような自覚が無いからです
スポーツの指導者が暴力を振るったり、彼らが法の処分を免れている現実は
日本の民主主義の未熟を物語っています
スポーツ文化の未熟は民主主義の未熟をも示しているのでしょう