桐蔭学園は今でも、山の中という印象がありますが
開校を決めた当時は、横浜駅からのバス便しかありませんでした
小田急柿生駅からのバス便すらなかったのです
学校開設の申請を出すと
神奈川県私学協会の理事長と副理事長が視察に来ました
「ベビーブームが終わり、収容数は余っている」
「私学協会では賛成できないと思う」
ということを言われ
私学協会で本当に否決されてしまいました
開校は昭和39年と、すでに決めてしまっています
先生は、ありとあらゆる人脈をたより
なんとか、高校開設の申請を通すことができました
そんなわけで、校舎建設も進まないまま、すぐに生徒募集です
鵜川先生は、自家用車を持っていた友人の協力で
たった一人で中学校を片っ端から訪問し
受験生をかき集めたのでした
試験は県内ではやってはいけないということで
武蔵工大の付属高校を借りました
採点教師は山手英学院に頼み込みました
なお、教師として内定していたのは
小山台高校時代の教え子、榊原滋氏(現、桐蔭学園理事長)だけでした
開校の許可が降りたのは、昭和39年3月31日でした
すでに入学試験も合格発表も終わった後でした
開校を決めた当時は、横浜駅からのバス便しかありませんでした
小田急柿生駅からのバス便すらなかったのです
学校開設の申請を出すと
神奈川県私学協会の理事長と副理事長が視察に来ました
「ベビーブームが終わり、収容数は余っている」
「私学協会では賛成できないと思う」
ということを言われ
私学協会で本当に否決されてしまいました
開校は昭和39年と、すでに決めてしまっています
先生は、ありとあらゆる人脈をたより
なんとか、高校開設の申請を通すことができました
そんなわけで、校舎建設も進まないまま、すぐに生徒募集です
鵜川先生は、自家用車を持っていた友人の協力で
たった一人で中学校を片っ端から訪問し
受験生をかき集めたのでした
試験は県内ではやってはいけないということで
武蔵工大の付属高校を借りました
採点教師は山手英学院に頼み込みました
なお、教師として内定していたのは
小山台高校時代の教え子、榊原滋氏(現、桐蔭学園理事長)だけでした
開校の許可が降りたのは、昭和39年3月31日でした
すでに入学試験も合格発表も終わった後でした