いかなる経緯で、都立小山台高校に補習科ができたのか
鵜川先生がお亡くなりになってしまった以上
真相は永遠に語られることはありません

同窓のよしみをもって
東京都教育長自ら制度の抜け道を示唆したとしたら
社会的糾弾は免れません
補習科設置の経緯を明らかにすることは
先輩に、恩を仇で返すことになってしまいます
このことは鵜川先生と柴田周吉氏が生涯胸にしまった秘密だったはずです

私がこの秘密に気付いたのは
後年、鵜川先生が横浜の山手学院校長就任を要請されたとき
”補習科設置でお世話になった柴田周吉氏”に相談しているからです

たしかに柴田氏は補習科設置に賛成してくれました
そして、同窓の東京都教育長に頼みに行ってくれました
しかし自伝によれば、柴田氏の頼みは一蹴されてしまったはずです

柴田氏は、三菱化成のトップに登りつめた、やり手の実業家でした
役所に何かを頼みに行って、断られたからといって
すぐに諦めるような人ではなかったはずです
実際には柴田氏の強力な働きかけで
東京都教育長は、補習科設置の可能性を示唆せざるをえなかったのでしょう

だからこそ”補習科設置でお世話になった柴田周吉氏”となるのです

その後、三菱化成会長柴田周吉氏と鵜川昇先生は
二人三脚で桐蔭学園を作ることになります

鵜川先生は
PTA会長であった柴田氏と小山台高校の補習科を作り
三菱化成会長であった柴田氏と桐蔭学園を作ったのでした

先生が柴田周吉氏を”柴田会長”と呼ぶとき
そこにどんな思いが込められていたのでしょうか