俊子が亡くなっても
R・B・ボースと中村屋の関係は変わることなく
むしろ、より強固なものとなっていきます

子供たち(正秀と哲子)は相馬夫妻に預けられ
ボースは原宿の家で一人暮らしをしますが
毎週日曜日には、子供たちが原宿のボースの家に行き
親子水入らずで過ごします
ボースはこの日を大層楽しみにしていたといいます

中村屋は、1923年4月1日付けで
資本金15万円の株式会社に改組しています
R・B・ボースは、相馬家の息子や娘と供に、主要な株主となりました

この頃、中村屋の経営は大きな岐路に立たされていました
新宿の発展とともに、大型店舗の進出があいつぎ
1925年、三越百貨店が新宿に進出すると
中村屋の売上は15%もダウンしてしまいました

巻き返しをはかるため、中村屋は数々の経営改革をします
その一環として
1927年6月、喫茶部が開設されました

この時、喫茶部の看板メニューとして売り出されたのが
R・B・ボース直伝の「インドカリー」でした