追っ手の追跡も止み、日本への帰化も認められたボースは
インド独立のための積極的な活動を開始します

しかしこの頃から、妻・俊子の体調が思わしくなくなりました
1924年の半ばころから、急速に悪化し
床に伏す毎日が続くようになりました

俊子の病は肺炎でした

日光の入らない隠れ家の生活と
ひと時も気をゆるめることのできない心労が重なり
俊子の肉体は徐々に蝕まれていったのでした

1925年3月4日
ボースが懸命に唱なえるヒンドゥーのマントラに
俊子は、かすかに口を動かし唱和しながら
やがて、静かに、永遠の眠りにつきました

ボースが毎朝唱なえるヒンドゥーのマントラを
俊子も唱和しつつ、いつしか憶えてしまったのでした
最期の時は、誰も近付くことのできない夫婦二人だけの時間であったといいます

後年、ボースは結婚生活を

「短かったけれど、私達の生活は幸福でした」

「一生の幸福を、あの数年の間に享けたという気がする」

・・・と回想しています

その後、ボースには度々条件の良い再婚話が持ち込まれ
相馬黒光は、子供たちの世話なら、私達がするから心配するなと
ボースに念を押しました

ボースは生涯、すべての再婚話を頑なに拒否しました