中村屋の主人、相馬愛蔵は「蚕種製造論」の著者として
若くして全国の養蚕家に注目される知識人でした
養蚕業以外にも様々な社会運動をする中で
若き日の萩原守衛(碌山、近代日本を代表する彫刻家の一人)と知り合います

萩原はニューヨークに渡り、画家として頭角を現しますが
パリでロダンに師事し、新進気鋭の彫刻家としての名声を得ました
帰国した萩原は、中村屋で相馬夫妻と同居することになります

萩原守衛が30歳で夭折すると
相馬夫妻は中村屋の敷地内に「碌山館」を建て
萩原守衛の作品を置き、これによって多くの文化人が中村屋にあつまりました

「碌山館」とは別に、敷地内に
萩原守衛が友人の画家のために作ったアトリエがありました
ここに住んで相馬家の子供達をモデルに絵を描いていた若い画家がいました

当時15歳の長女俊子はミッションスクールに通っていました
画家は若い俊子に魅せられ、俊子だけを描くようになり
ついには俊子に服を脱ぐように懇願するのでした

俊子はこれに応じてしまいました

俊子の裸婦像を見た相馬夫妻や教師達は怒り
画家はアトリエを追い出されてしまいました
二人のインド人が中村屋に来る少し前の出来事です

空家となったこのアトリエが、ボースとグプターの隠れ家となりました