昭和48年、森進一の母が自殺した時
駆けつけた川内康範氏は、皆に指示をして
遺体に死化粧をほどこし、北枕に寝かせ
その枕元で、朗々たる声でお経を上げました
川内氏がお経を読めたのは、実家がお寺だったからです
川内康範氏は、大正9年、北海道函館市で
日蓮宗のお寺の4男として生まれました
高等小学校を卒業後、市内の家具屋の店員になり
以後、様々な職業を転々としました
川内氏は家具屋を辞めた後
製氷工場の工員や夕張炭鉱の工夫などをしました
憧れていた映画の世界にはいるため
大都映画で大道具係りをしていた兄をたよって上京しました
しかし願いは叶わず、ドヤ街に住み
埋め立て工事の労務者、新聞の勧誘、配達員などをし
時には、売血で糊口をしのいだといいます
20歳の時、日活関係者のツテで、日活撮影所にはいることができました
途中、東宝に移ります、仕事は大道具係りでした
戦後、東宝が分裂し、新東宝ができた時
そこでシナリオを書き始めます
注文があれば、それに合わせたシナリオを書き
昭和31年だけで16本のシナリオを手掛けるまでになりました
川内康範氏の名を世に知らしめたのは
昭和33年にスタートしたテレビドラマ「月光仮面」です
脚本を手掛け、大ヒットさせたこの作品は
平均視聴率40%台、最高視聴率は何と67,4%を記録しました
川内氏は稼いだ金を無駄使いせず
シンガポールなど、南方のジャングルで戦死した兵士達の
遺骨収集に乗り出しました
政府にすら、まだそうしたことをする余裕の無い時代のことです
後の厚生大臣、園田直氏が、わざわざ頭を下げにきたそうです
駆けつけた川内康範氏は、皆に指示をして
遺体に死化粧をほどこし、北枕に寝かせ
その枕元で、朗々たる声でお経を上げました
川内氏がお経を読めたのは、実家がお寺だったからです
川内康範氏は、大正9年、北海道函館市で
日蓮宗のお寺の4男として生まれました
高等小学校を卒業後、市内の家具屋の店員になり
以後、様々な職業を転々としました
川内氏は家具屋を辞めた後
製氷工場の工員や夕張炭鉱の工夫などをしました
憧れていた映画の世界にはいるため
大都映画で大道具係りをしていた兄をたよって上京しました
しかし願いは叶わず、ドヤ街に住み
埋め立て工事の労務者、新聞の勧誘、配達員などをし
時には、売血で糊口をしのいだといいます
20歳の時、日活関係者のツテで、日活撮影所にはいることができました
途中、東宝に移ります、仕事は大道具係りでした
戦後、東宝が分裂し、新東宝ができた時
そこでシナリオを書き始めます
注文があれば、それに合わせたシナリオを書き
昭和31年だけで16本のシナリオを手掛けるまでになりました
川内康範氏の名を世に知らしめたのは
昭和33年にスタートしたテレビドラマ「月光仮面」です
脚本を手掛け、大ヒットさせたこの作品は
平均視聴率40%台、最高視聴率は何と67,4%を記録しました
川内氏は稼いだ金を無駄使いせず
シンガポールなど、南方のジャングルで戦死した兵士達の
遺骨収集に乗り出しました
政府にすら、まだそうしたことをする余裕の無い時代のことです
後の厚生大臣、園田直氏が、わざわざ頭を下げにきたそうです