天正10年(1958)、本能寺の変で織田信長が没すると
徳川家康は、あっという間に、甲斐、信濃、駿河を支配下に置いてしまいました
この時の家康は生涯最高の満足感にひたっていたかもしれません

思えば、本能寺の変の折、自身わずかな手勢で京に滞在していたため
命からがら京を脱出し、三河に逃げ帰ったのでした
後年、その時のことを振り返って、生涯最大の危機であったと述懐しています
その直後に、東海地域全域及び、甲斐,信濃を手にしたわけです
目の上の瘤ともいうべき織田信長は死に
背後を脅かす武田は滅びました
徳川家康は、ついに”東海の覇者”となったのです
文字通り”海道一の弓取り”になりました

満足気に新たな領地を検分する家康は
安倍川のほとりで大きな鉄の釜を発見します
煎人釜です
家康はこの釜を浜松に運ぶよう、駿府の奉行に命じました

家康の命を受けた奉行は、大きく重い鉄の釜を
東海道を西へ西へと運んで行きました
そこへ突然、恐ろしい人相をした武士が現れ「待った」をかけました
現れたのは本多作左衛門です
あの「お仙泣かすな、馬肥やせ」の手紙を書いた本多作左衛門です
鬼作左と呼ばれ、恐れられ、この辺りでは知らぬ者のない本多作左衛門です

作左衛門に抵抗できる者はいなかったようです
なんと、作左衛門は、その場で、煎人釜を破壊させたのです
放心した奉行に、作左衛門は、周囲の誰にも聞こえぬ小さな声で
家康への申し開きの口上を伝えました
「一言一句たがえてはならぬ」と念をおして