第二次大戦後の米ソ対立と東西冷戦により
ドイツは東西に分断され
東ドイツの中に西ベルリンという西ドイツの飛び地ができました
西ベルリンと西ドイツとの往来は
直通専用道路、直通列車(東ドイツ領内には止まらない)
空路(航空機は米、英、仏のものに限られる)
を使うことにより可能でした
東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されていました

東西ベルリンは往復が可能で、通行可能な道路が数十あり
地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されていました
東に住んで西に出勤する者や、西に住んで東に出勤する者は数万人いました
しかしこの往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が
ベルリン経由で西ドイツに大量流出しました
このことは東ドイツに深刻な労働力不足をもたらしました

東ドイツ政府は、これ以上の人口流失を防ぐため
1961年8月13日午前0時、東西ベルリン間68の道全てを閉鎖し
有刺鉄線による最初の”壁”の建設を開始しました
朝6時までに、東西間の通行はほとんど不可能になり
有刺鉄線による壁は13時までにほぼ完成しました
2日後には石造りの壁の建設が開始されました
1975年に完成した最終期のものはコンクリート製です
壁の長さは155kmありました

「ベルリンの壁」は西ベルリンをぐるりと取り囲む形でつくられましたが
実際には東ドイツ国民の西ドイツへの出口を封鎖したものです
東ドイツ国民を閉じ込める壁だったのです