合氣道の稽古での備忘録的に…
氣を導くことによって成り立つ技…ならば、
その氣が動くこと、それが見えないのは、、
単なる体操だ…
よく言われることだ。
で、その中で、、
「ハラがザワついとる、もっと静めて…」
と言われ、ハッとなる。。
ハラが、、一点が確かに上がってる。
横隔膜の辺りが少し硬い感じだ…
先生の目にはどのように映っているのか?
それはナゾだけど、、
結局のところ氣が上がってしまえば、氣を
導くところもピントがボケたものになる…
行き着くところ、最も基本の部分に行き着く
…さて、いろんな分野のことでも同じような
ことが言えるかもしれん。
いわゆる型・技術的なものは伝えられてる。
でも、古くから伝わるモノであるほどに、、
当時の生活様式、習慣、言葉・言葉の意味
そして当時の人と今の人の体力、栄養状態
身体能力、等々…
いろんな意味で今の人間とは異なっている
かもしれない。
中国武術の世界では、武術の技を学ぶ以上
に文化を学ぶ必要があると言われる。
伝わっている言葉の意味を感覚レベルで
理解できないと、身に着けることが難しい
そうだ…
それは、合氣道も同じだろうと僕は思う。
だってね、、今の先生の説明を聞いていても
昔と言ってることが変わってきてる。
しかも、同じことを言っていても、ニュアンスが
変化してきていることもある。
それを考えると、、創始者の植芝先生だって
壮年の時と、晩年では変わっていると想像
してる。
合氣道では「統一体」と呼ぶ状態…
※他の分野でも共通するものだ
これを創りあげること…そこに行き着くけども、、
単に“○○○すればできる”的なところで止まって
いたかなぁ…と、、
古くから…
上体は虚にして虚
下体は虚にして実
中体は実にして実
と伝えられているものがある。
この身体をシッカリと作り上げること…
もっとここを深める必要があったんじゃないか?
今日はそんな風に思った。
悟りを開く人たちは、身体も同時に練り上げた
それは、同時に心を練り上げ、、
悟りを開いた心を体現することができたんじゃ
ないかな…
これは僕の想像だ。
別に悟りを開くことを目的にしてる訳でもない
けども、、
より持てるチカラのすべてを表現できる身体を
つくることで、“それ”を実行していけるんだろう…