概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(4)
西暦2016年1月24日:日曜日

前半(4)
【『A・Course・in・Miracles』
個体の特別性誘引による弊害】

①【A・Course・in・Miracles】原文引用―個体の特別性について―Jesus(イエス・キリスト)について。実際Jesusはエゴの例外づくり。相当な信念と覚悟の追究がなければ、特別性の例外を受け入れ、妥協し、真実からは遠ざけられてしまう。エゴのそらしと歪みを見抜く目は、この信念と覚悟の「真実だけの追究」でしか得られない
②他者への信頼は鵜呑みを生じさせる。「この人が言うならそうなのだ」、「この人が言うなら信じられる」という魔法にかかりやすくなる。それが「特別性」という「真実を見えなくさせる為の障壁」だ。その特別性の魔法による目隠しは、その信頼した相手への幻滅まで効果を発する

【①【A・Course・in・Miracles】原文引用―個体の特別性について―Jesus(イエス・キリスト)について。実際Jesusはエゴの例外づくり。相当な信念と覚悟の追究がなければ、特別性の例外を受け入れ、妥協し、真実からは遠ざけられてしまう。エゴのそらしと歪みを見抜く目は、この信念と覚悟の「真実だけの追究」でしか得られない】

しばらくは去年西暦2015年の続きで「特別性」に関する概念記事を書いていく。この概念は徹底的に書き尽くし、どれほどエゴが「特別性」を死守し欺きの手段としているかをはっきりさせる。
今回は、【A・Course・in・Miracles】の
「個体の特別性の誘引による弊害」の概念的方向性を示すために、歪みである
【A・Course・in・Miracles】原書
MANUAL FOR TEACHERS
『23. Does Jesus have a special place in healing?』
を提示していく。

【A・Course・in・Miracles】の「illusion(幻想)」とは、仏教で言う意味合いに近い意味。

知覚ある世界はエゴが作った幻想(インチキ)でしかない。

全ての個体も、個々の存在も、例外なくエゴが作った幻想(インチキ)でしかない。

しかし、エゴは限界に達するまで死に物狂いで「特別な関係」の【例外】を作り出す。

「唯一の関係=神。その他はエゴが作った幻想」という【A・Course・in・Miracles】本道概念があっても、エゴは【例外】を作り出す。
それが【A・Course・in・Miracles】概念の「聖なる関係」だ。

そして、「神の教師」という【例外】を作り出し、巧妙に「特別な関係」を死守したのが「聖なる関係」だ。名前からして魅力的だろう。
エゴが【例外】として作ったからだ。

【例外】を作り出す為の「神の教師」概念を作ることで、エゴはJesus(イエス・キリスト)等の例外を正当化させようとした。特別性を死守するために。

本物:佐藤篤代の領域において、Jesus(イエス・キリスト)は偶像として堕ちきっていた。信仰や尊敬の欠片もなく、信頼に値もしない「過去の人」というイメージしかなかった。インチキ臭さしか浮かばない位の、ただ無意味に人々の犠牲になったとかいう、なんか押し付けがましい恩着せがましいだけの存在。古代の人々は視野が狭いから、盲目的に何か役に立たないものを信じてるからこその妄信的な悲劇位のイメージ。単なる教科書に載っているレベルの有名な古代の縁遠い個体。

「神なんかいないのに。神は愛でなんかないだろうに。神が存在するなら何故こんな理不尽で残酷な世界を作ったのか?何故こんな不完全な私をこの世界に産み落としたのか?神はライオンみたいに大切な子を崖から突き落とすのか?そんなこと何故するのか?神は意地悪で気まぐれで残酷なんじゃないのか?それとも私が神から見離されているというのか?何か私が悪いことをしたというのか?」―神についてはそんなイメージしか持たないエゴが作った最後の領域。神には失望しきっていた。だからJesus(イエス・キリスト)なんかに良いイメージなんかない。嘘つき位にしか思えない。

特にここ日本では無宗教が普通の一般。宗教は胡散臭さやインチキ臭さのイメージしかなく、日本の一般人は宗教自体を敬遠する位に組織宗教は堕ちきっていた。

歴史もあらゆる宗教組織の賄賂や不正や醜い権威争いや堕落、金と物欲にまみれた有り様を露呈させてきた。宗教が争いをもたらし、戦争を引き起こすこともしばしば。

「宗教=物欲魔神(権威、性欲、金品欲、あらゆる欲への執着)」というイメージすらわく位にマイナスのイメージしかない。綺麗事を張りぼてに実際にやっていることはあらゆる欲にまみれた腐敗状態。

そして宗教に纏わる「洗脳」のイメージ。それぞれのまつり上げる神を盲信する信者たちの有り様はしばしばゾッとさせ、時に正気を失っているようにも見える。神に救いを求め信仰しながら彼らは幸せかと言えばちっとも幸せには見えない。自分達を幸せにしてくれない神に必死ですがる不幸な者達の姿は憐れにしか見えない。祈っても祈っても決して結果が出ない祈りを神に捧げる信者たち。もはや他力本願な怠惰な無駄な行為にしか見えず、ただ体裁だけに祈っている者の方が多い実態。本当は神なんかいないと思い、信じてもないくせに宗教の利害に縛られた憐れな妄執の囚われ人にしか見えない。

そして、利害で縛れなければ、マインドコントロール、洗脳等で信者を呪縛し、金儲けの為だけに宗教組織を運営する宗教家たち。宗教リーダーを偉人に見せ、特別に思わせる為にインチキトリックまで使いながら信者を集める金の亡者。

トリックに引っ掛かった信者たちは、インチキマスターに盲信しせっせと金を貢ぐ。魔法がかかっている間だけの盲信。魔法から醒めた時、信者は利害の為に自分も騙す方にまわるか、あるいは逃げ出そうとして閉じ込められる。そこからはあらゆる恐怖で縛り付け、逃げ出せなくさせる。よくある宗教組織の実態。

マスターの言うことは絶対。マスターが言うことは何でも正しい。賢人のフリ、偉人のフリ、救済者のフリ、人格者のフリを装い信者たちの心を掴むマスター。信者たちはあらゆる方法でマスターに盲信させられ、傾倒させられ、マスターだけに焦点を集めさせられて視野を狭められ、他の何も見えなくされ、何も聞こえなくさせられて、心を支配されて真実を見えなくさせられていく。
どの宗教にもこれは言える。

日本では、オウム真理教という宗教組織の大規模な犯罪により、宗教に対する見方が更にインチキ臭く、あるいは「危険」とすら見なすようになった。

【オウム真理教事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
オウム真理教事件(オウムしんりきょうじけん)とは、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教が起こした事件の総称である。
オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)が救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、外国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
一連の事件で29人が死亡し(殺人26名、逮捕監禁致死1名、殺人未遂2名)負傷者は6000人を超えた。
特に注目される事件として、教団と対立する弁護士とその家族を殺害した1989年11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、教団松本支部立ち退きを求める訴訟を担当する判事の殺害を目的としてサリンを散布し計7人の死者と数百人の負傷者を出した1994年6月27日の松本サリン事件、教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱を目的に5両の地下鉄車両にサリンを散布して計12人の死者と数千人の負傷者を出した1995年3月20日の地下鉄サリン事件が挙げられる。毎日新聞ではこれら3つの事件に対してオウム「3大事件」(オウムさんだいじけん)と表現している。
被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」とされている。
以上

そのくらいに宗教は日本では敬遠される傾向が強い。

そんな日本では、キリスト教だろうが仏教だろうが、世界三大宗教だろうが、単に宗教とはインチキ臭さとしか結び付かないようなイメージが強すぎる。

故に、これらの歴史的背景から、キリスト教もJesus(イエス・キリスト)も、インチキ臭さしか感じていなかったわけだ。
その位に堕ちきった偶像だった。

その中で、心理学から成功法則へ概念が移行してから、成功法則はジョセフ・マーフィーをメインでやった。
ジョセフ・マーフィーはアメリカの牧師で、キリスト教だった。だから、そこから堕ちきった神の見方が変わった。今思うと、偏見を無くし、どんな分野だろうと偏った見方をせず、正しいと思える納得できる概念は認める視野の広さを身に付けるためだったのだろうと思える。
しかしやはり神という考えには抵抗が生じる部分も残り、神というより「無限の力」という表現で使った。

成功法則では「神=無限の力=広大無辺の力」だ。神は世界の法則だという概念なわけだ。要するに無機質で人間的な人格はなく、単なる世界を動かす作用、法則の力の源という概念。

もはや神が人間的で人格がある等と言われてもそんな不完全過ぎる神なんか信じられなかった。採用する概念にはなり得ない。

「神が世界を動かす作用、法則の力の源で無機質で人間的な部分が一切ない」というならば信じられた。それならば、神という概念を受け入れられたわけだ。ただ、神というイメージ自体が堕ちきった対象故に、「無限の力」という表現で成功法則を実践した。

それだけ神に対する不信は根強かったわけだ。

それ故に、成功法則段階では、まだJesus(イエス・キリスト)のイメージは地に堕ちたままだった。神概念が「無機質で人間的ではない単なる力の源」となり納得できても、Jesus(イエス・キリスト)のイメージは全く変わらない。

Jesus(イエス・キリスト)に対するイメージがやっと変わったのは、成功法則を過ぎてスピリチュアルに入り、数か月で【A・Course・in・Miracles】の内容を知ってからだった。

【A・Course・in・Miracles】主要概念『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想(インチキ)』、『特別性を完全に棄てなくてはならない』という概念は直ぐに納得がいき、受け入れざるを得ないと思った。エゴが作った知覚ある世界の全てを価値として完全に例外なく棄てなくてはならないのは本当だと思った。受け入れなくてはならない課題を遂に目の前に突き付けられた感覚で、「遂にその時が来てしまった」という確信と諦めしかなかった。それは何故か解っていたことで、受け入れなくてはならない時が遂に来たという諦めだ。
【A・Course・in・Miracles】の「illusion(幻想)」とは、仏教で言う意味合いに近い意味。

そういう取り組まざるを得ないという確信を得た概念だったので、【A・Course・in・Miracles】の内容をJesus(イエス・キリスト)が提唱していたが弟子たちや組織に歪められたという言い分を信じた。信じさせられた。

ただし、Jesus(イエス・キリスト)を信じ盲信していたわけでもなく、元から地に堕ちた偶像だ。そこまで長々とは欺き通せなかったわけだ。

本物:佐藤篤代が信じたのは偶像ではなく概念だ。概念がまず先に来ている。偶像なんか後付けのおまけみたいなものだ。
欲しかったのは、望んでいたのは信じるに足る偶像なんかではない。信じるに足る真実だ。納得できる真実だ。説明できる真実だ。全ての問題を完全に解決できる真実だけだ。
だから、Jesus(イエス・キリスト)の提唱する矛盾に気づくのに遅くはならなかっただけだ。
求めるのは真実だけだったからだ。他の余計な全てを必要としていなかっただけだ。

だからこそ、本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】の中の矛盾に気づけた。歪みがあると気づけた。

エゴはJesus(イエス・キリスト)という例外を作り出すことにより、特別性を死守した。その特別性の死守が『神の教師』概念だった。

その『神の教師』という個々の存在による特別性の誘引により、歪みを歪みとして見ることを不可能にされていたわけだ。

特別性の誘引により、矛盾を矛盾として認識できなくさせられる。だから『神の教師』概念が例外づくりの矛盾だと気づくことができない。

元から納得いかない概念はそのまま鵜呑みにせず、「何故そうなるのか」を答えが出るまで考え続けてきた。そういう納得できない説明がつかない概念が矛盾としてはっきりとしただけだ。

「1+1=2」位に明らかにはっきりと完全に説明できない概念は鵜呑みにしない。完全に納得できるまで「何故そうなるのか」を考え続ける。それで、特別性の誘引には引っ掛かりにくくなり、目隠しは長々とは成立しなかったわけだ。

また、【A・Course・in・Miracles】の内容は歪められる位に歪められるという情報を嫌というくらいに最初に与えられていた。エゴは真実を歪め、見えにくくさせ、隠す。それがよく解る状態で【A・Course・in・Miracles】は目の前に現れた。
だから、自分が「理解できている」と絶対に思わないようにし、常に歪みを受け入れさせられている可能性を念頭に置いていた。それは西暦2016年現在でも変わらない。概念的に確信することは避けており、常に概念は覆る可能性があると思い身軽に柔軟でいる。

だから常に「自分がきちんと理解できているか」を疑いながら、歪みない方向性を目指し、歪みを取り除きながら真実に近づいていく姿勢でいたので、特別性の誘引にもエゴの誤魔化しや取り繕いにも引っ掛かりにくかっただけだ。

『神の教師』概念は確かに魅力的だ。自分が『神の教師』になれたら…と誰でも一度は思うくらいに魅力的だ。だからこそ目隠しをされる。それこそが特別性の誘引だからだ。目的がそこでマスターや『神の教師』とすげ替えられる。それで真実からそらされる。

焦点が「真実だけ」でなければ、常にエゴの誤魔化しや誘引にそらされてしまうのだ。常に違う焦点へ向かわされる。
だから堅い揺るぎない信念レベルでの「真実」だけの追究が欠かせないのだ。

求めるのは全ての問題の完全解決。
完全解決は真実にしかできない。
それ以外には何もいらない。
完全解決以外何もいらない。
他の全てを全部棄てて完全解決である真実だけを求め続ける。
そう覚悟に満ちた追究がなければ簡単にエゴによりそらされてしまう道だ。

余計なものなんか一切何もいらない。
甘いアメなんかいらない。一時だけの、永遠には続かない幸せも、癒しも、喜びも何もいらない。
そんな一時のアメなんか何の役にもたたない。
永遠に終わる完全解決以外意味がない。
再発する不完全な解決法なんか意味が無さすぎる。
完全解決できない方法なんか全部いらない。

マスター?教師?
尊敬―?人望―?信頼集め―?
そんな無意味なもの、完全解決の為に何の役に立つんだ?
自己満足なんかいらない。
他人の尊敬や信頼なんか、完全解決の為に何の役にもたたない。

自分を高める?改善する?改革する?
エゴが作った個体である自分を高めて改善することに何の意味がある?
唯一必要なのは、永遠に終わる完全解決だけだろう。

完全に解決できる方法―真実以外に、何の意味がある?何の必要性がある?

お遊び概念なんかいらないんだよ。
エンターテイメントなんかいらない。
自分を高くさせる概念なんか要らなすぎるんだよ。
一時の安楽なんか、一時の満足なんか、そんなもん何の役にもたたない。

必要なのは真実だけ。
完全解決できる方法だけ。
だから他の全てはいらない。
人生かけて、(比喩だが)命懸ける覚悟と決意で、真実だけを追究する。
そうでなければ何も終われない。

だから、永遠に終わる完全解決に必要なことしかやらない。
その他全てを棄てるし、やらない。
無駄なこと全てを棄てるし、やらない。
終わらせる為に使えるなら何でも使う。
終わらせる為にしか何もやらない。

永遠に終わる完全解決しかいらないし、その為にしか何もやらない。

完全に終われない方法は棄てていく。完全に終われる完全解決法にだけ向かっていく。

完全に終われる完全解決は知覚の終わりのみ。
知覚の終わりにより、もはや絶対に再発しない。
故に求めるは知覚の終わりのみ。
終点は知覚の終わり。
【A・Course・in・Miracles】にもこれは書いてある。

唯一の焦点は完全解決方法だけ。
よそ見せず真っ直ぐにこの焦点にだけ向かうのみ。寄道してる暇も余裕なんかもない。エゴの欺きの意図だと知りながらエゴの欺きの手段に引っ掛かってる余裕なんかない。後戻りなんてそんな無意味なことに時間をくってる余裕なんかない。
エゴの欺きを見破ることに時間を使う。
絶対にそれないでその焦点だけを追い求める。歪みは全部削いでいき、真実だけへ向かっていく。
その焦点が真実なのだ。

人生かけてこの決意と覚悟をしている。
だから絶対に諦めない。
諦める選択はもはやあり得ない。
何があろうが、完全解決法である真実へ達する選択しかない。
諦めることなどもはや不可能。

この信念と覚悟の追究がなければ、特別性の例外を受け入れ、妥協し、真実からは遠ざけられてしまうのだ。

見抜く目は、この信念と覚悟の「真実だけの追究」でしか得られない。


エゴは最後の最後、【本当に徹底的に例外がない】という事実が隠せなくなるまで【例外】を作り出す。
それはもう必死過ぎるくらいの取り繕いで。

だから、「brother」、「the holy relationship」等の概念は特別性を死守するエゴの目的ゆえ、例外を作り出す為の算段でしかない。

故に、すべき全ては、徹底的に【例外なく】「特別性を否定し、棄てる」方向性を追究することだ。何も鵜呑みにしない。断定しない。常に歪みを受け入れさせられている可能性を考慮に入れ、とことん「特別性を否定し、棄てる」方向性を追究する。そうしなければ、必ず歪みを受け入れさせられている。

エゴがどれだけ徹底的に特別性を死守するのかを目の当たりにすれば、その必要性が理解できる。

実際は一切、徹底的に、例外はない。
エゴの魅力の魔法から完全に醒めれば理解できる。

実際は、「聖霊」として歪められた【終わらせる為に作用する何か】の作用により、エゴが作った全て、特別な関係をはじめ、知覚ある世界の全てが再利用されて、全て幻滅へと持っていかれる。
幻滅しなければ、棄てられないのだ。

特別な関係は幻滅の為に再利用されるということだ。

特に特別性は、幻滅がなければ絶対に棄てられない。

西暦2016年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も癒しも歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
「student」、「teacher」は矛盾であり、歪みでしかない。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

また、原書にある「brother」は「あらゆる他者、個々の存在」、「the Father」は「神」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「the Kingdom」や「Heaven」は「the Kingdom=Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「I」等の一人称はJesus(イエス・キリスト)。
「Friend」は「聖霊」。
少なくとも「learn」は「知る」、「teach」は「知らせる」と意味を取らなくては歪みにハマり込む期間がそれだけ長くなる。
故に「teacher」は「知らせる者」、
「learner」は「知るべき者」。
しかも「知らせる(段階の)者」、
「知るべき(段階の)者」。

「idol」とは「偶像」であり、「偶像」とは「あらゆる個々の存在」を指す。

以下のJesusに関しては、故に歪みであり、Jesus(イエス・キリスト)はエゴの特別性を死守する目的における例外づくりだ。


▽以下引用

23. Does Jesus have a special place in healing?

1. God's gifts can rarely be received directly.
Even the most advanced of God's teachers will give way to temptation in this world.
Would it be fair if their pupils were denied healing because of this?
The Bible says, "Ask in the name of Jesus Christ."
Is this merely an appeal to magic?
A name does not heal, nor does an invocation call forth any special power.
What does it mean to call on Jesus Christ?
What does calling on his name confer?
Why is the appeal to him part of healing?

2. We have repeatedly said that one who has perfectly accepted the Atonement for himself can heal the world.
Indeed, he has already done so.
Temptation may recur to others, but never to this One.
He has become the risen Son of God.
He has overcome death because he has accepted life.
He has recognized himself as God created him, and in so doing he has recognized all living things as part of him.
There is now no limit on his power, because it is the power of God.
So has his name become the Name of God, for he no longer sees himself as separate from Him.

3. What does this mean for you?
It means that in remembering Jesus you are remembering God.
The whole relationship of the Son to the Father lies in him.
His part in the Sonship is also yours, and his completed learning guarantees your own success.
Is he still available for help?
What did he say about this?
Remember his promises, and ask yourself honestly whether it is likely that he will fail to keep them.
Can God fail His Son?
And can one who is one with God be unlike Him?
Who transcends the body has transcended limitation.
Would the greatest teacher be unavailable to those who follow him?

4. The name of Jesus Christ as such is but a symbol.
But it stands for love that is not of this world.
It is a symbol that is safely used as a replacement for the many names of all the gods to which you pray.
It becomes the shining symbol for the Word of God, so close to what it stands for that the little space between the two is lost, the moment that the name is called to mind.
Remembering the name of Jesus Christ is to give thanks for all the gifts that God has given you.
And gratitude to God becomes the way in way in which He is remembered, for love cannot be far behind a grateful heart and thankful mind.
God enters easily, for these are the true conditions for your homecoming.

5. Jesus has led the way.
Why would you not be grateful to him?
He has asked for love, but only that he might give it to you.
You do not love yourself.
But in his eyes your loveliness is so complete and flawless that he sees in it an image of his Father.
You become the symbol of his Father here on earth.
To you he looks for hope, because in you he sees no limit and no stain to mar your beautiful perfection.
In his eyes Christ's vision shines in perfect constancy.
He has remained with you.
Would you not learn the lesson of salvation through his learning?
Why would you choose to start again, when he has made the journey for you?

6. No one on earth can grasp what Heaven is, or what its one Creator really means.
Yet we have witnesses.
It is to them that wisdom should appeal.
There have been those whose learning far exceeds what we can learn.
Nor would we teach the limitations we have laid on us.
No one who has become a true and dedicated teacher of God forgets his brothers.
Yet what he can offer them is limited by what he learns himself.
Then turn to one who laid all limits by, and went beyond the farthest reach of learning.
He will take you with him, for he did not go alone.
And you were with then, as you are now.

7. This course has come from him because his words have reached you in a language you can love and understand.
Are other teachers possible, to lead the way to those who speak in different tongues and appeal to different symbols?
Certainly there are.
Would God leave anyone without a very present help in time of trouble; a savior who can symbolize Himself?
Yet do we need a many-faceted curriculum, not because of content differences, but because symbols must shift and change to suit the need.
Jesus has come to answer yours.
In him you find God's Answer.
Do you, then, teach with him, for he is with you; he is always here.

(P58~59)
△以上引用

【A・Course・in・Miracles】
second edition:
MANUAL FOR TEACHERS
『23. Does Jesus have a special place in healing?』

こうして特別性は死守される。
エゴによって。

ある特定の対象を信頼できるとなれば、その対象の提唱の誤りに気づけなくなる。相当気づきにくくなる。

故に、真実を知る方法に偏りがあってはならないのだ。
特定の誰か存在ではいけない。
特定の何かであってはならない。
偏れば、真実を知ることが不可能となる。

それは特別性の誘引の弊害による。
何か1つでも特別な何かが生じれば、何か1つでも信頼できる何かが生じれば、例外が生じ、エゴが作った幻想※(インチキ)、欺きの手段が、信頼に値するとなる。それにより、その他全体が現実と化す。
※仏教で言う意味に近い幻想。

エゴが作った幻想※が何か1つでも現実的になれば、その他全てが現実となる。

だからこそ、真実を知る手段に偏りがあってはならない。

だから、本物:佐藤篤代はエゴが作った全てを何も信頼せず、インチキだと見ながら、エゴが作った全てから満遍なくパズルのように知る【パズル的知り方】を採るようになった。
エゴの目的をやってくる全てから見出そうとする姿勢から、いつの間にかパズル的に知るようになった為だ。
それならば何かに偏ることはない。
何も特別にはならない。
目の前にやってくる全てが知る手段だがエゴのインチキであるのが前提。だから信頼は不可能。
故に、特別性の誘引の弊害のようには盲目にされにくく、欺きにそらされにくい。

単に目の前にやってくる全ての中にエゴの目的を見出そうとすればよいだけなのだ。

だから、『神の教師』的な存在はいらないのが判る。真実を知る為に他者の助けも分かち合いも必要ない。

【A・Course・in・Miracles】で「聖霊」として歪められた【終わらせる為に作用する何か】の作用が作用するのを感じとり、エゴの目的を崩す為に何をしようとしているのか目的を見極め、作用しやすいように言動するのみだ。

それならば特別性の誘引はなされないし、特別性に囚われることなく、真実を追究できる。



【②他者への信頼は鵜呑みを生じさせる。「この人が言うならそうなのだ」、「この人が言うなら信じられる」という魔法にかかりやすくなる。それが「特別性」という「真実を見えなくさせる為の障壁」だ。その特別性の魔法による目隠しは、その信頼した相手への幻滅まで効果を発する】

『ブログが見えない異常者と化した異世界の住人達』一覧20→異常にも659越え
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12120898853.html
西暦2016年1月24日:日曜日現在

『[但し書き]に「いいね」を付けたブログが見えない者一覧』に「いいね」を付けた異常者と化した異世界の住人達、リンク
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12115515187.html

この関連づけで、特別性を死守する為にエゴがどれほど躍起になって無理矢理関連づけてくるのか以上でよく判るはずだ。 【異世界】だと発覚すると、エゴが作った主人公の立ち位置が危うくなるから、同じ領域だと誤魔化すために関連づけてくるのだ。
だから無理矢理になっている。
前に作られた領域であればある程、概念レベルがかけ離れすぎている。
常識も規範も「普通」も違う。
その違いが露になるから【異世界】さが更に証拠づけられるわけだ。
要するに【異世界】の墓穴堀り。


西暦2016年1月13日:水曜日
http://mainichi.jp/articles/20160113/k00/00e/040/228000c
住基カード偽造の医師逮捕 京都府警
他人名義の住民基本台帳カードを提示して警察官を信用させ、偽名で交通違反切符に署名したとして、京都府警は13日、京都市南区で精神科などの診療所を運営する清水光明容疑者(42)=同市上京区=を有印私文書偽造・同行使の疑いで逮捕した。診療所の男性患者の個人情報を基に他人名義の住基カードを作り、交通違反逃れを京都市内で繰り返していたという。
以上

この精神科医は患者に、当人の個人情報を使ったことを話したらしい。それで患者が警察に相談し、事件が発覚したのだ。
普通ならばこの精神科医が異常者ということになるが、これは精神科医としての傲りだ。

この精神科医は「この患者は精神病故に騙そうとしている」と言えば、欺き通せると思っていたのだろう。
精神科医は簡単に「患者の戯言」にできる。反論して騒げば「入院の必要がある」と捏ち上げて閉じ込めることができる。

このニュースを検索した時、検索結果が「精神科医」で検索されてしまい、ある精神科医の「患者は騙すから鵜呑みにしてはいけない」的なことを書いている記載が見出しとして出てきた。
そんなことを言うのは、精神科医として最低な肩書きだけの無能な【他者否定】の人権否定のインチキ精神科医だが。
専門用語と肩書きがなければ何もできない、精神病を捏ち上げる傾向が最悪な精神科医だ。
患者の人間性を否定して何が精神科医だか。それは人間性の否定でしかない。人間として患者を見ていない。自分と同じ人間を人間以下として見てさえいる。自分を選ばれた特権階級だと見ている、肩書き、外側、型至上主義者の典型だ。
癒し手として最低でその資格もない。
心理学巨匠ユングすら知らないのは確実だ。

だから、あらゆる教師や癒し手は型にしがみつき、執着し、自分の高みを守るために必死な特権階級の型至上主義者に成り下がるから、概念的発展は不可能となると言っている。

そして、精神科医はその発言を自分の良いように患者の事実を捏ち上げる方向へ持っていく危険性が高い。
「精神科医が言うなら」と精神病でない人も一声で精神病とされてしまう危険性が多々ある。
実体験から言っている。

肩書きがあったり、あらゆる点で発言に力を持つ者は、簡単に他者を信用させられる。だから教師や癒し手は型に執着し、型を自己宣伝の広告として掲げる。
「先生が言うならば本当なのだ」と盲目に信じられるので疑われにくい。嘘を言っても本当だと簡単に信じさせられる。
事実を簡単にねじ曲げられる。
それが精神科医の類いの危険性だ。
この偽造ニュースの精神科医もその点を狙って犯行に及んだのだ。

警察が患者の言うことを信じたからよかったものの、警察が精神科医の「この患者は精神病故に騙している」と言う捏造を信じて事実関係をよく調べなかったら、精神科医の犯行は闇に隠されていた。

だから精神科医は危険なのだ。
何でもありの自分の思う通りのねじ曲げた偽りの事実を押し通させてしまう危険性がある。

そして、だからこそ最終段階では、人間は信頼に値しないという前提に立たなくてはならない。人間は完全ではない。常に移ろい変わるもの。発言に信頼性はないと知らなくてはならない。

肩書きや地位、目に見えるあらゆる型に囚われていたら、発言力がある者の嘘や捏ち上げを信じさせられてしまう。

悪人がいくら事実を言っても、発言力がある「善人」の仮面を被った者の嘘が信用されてしまう。これが世界の実態だ。

他者を信頼するという行為は【人間レベル】では美徳であり、本物:佐藤篤代も長年概念的に追究してきた。
だが、「真実の追究」という方向性の中では、他者を信頼した時点で目を曇らせられてしまう。
故に【A・Course・in・Miracles】本道に入り【人間レベル】を超える際には他者への信頼を棄てなくてはならなくなる。

他者への信頼は鵜呑みを生じさせる。
「この人が言うならそうなのだ」、「この人が言うなら信じられる」という魔法にかかりやすくなる。
それが「特別性」という「真実を見えなくさせる為の障壁」だ。
その特別性の魔法による目隠しは、その信頼した相手への幻滅まで効果を発する。

「確実性と絶対」は永遠である属性にしか不可能だ。
故に信頼できるのは「永遠である何か」だけだ。永遠の属性が不可能である人間も個々の存在も、信頼には値しない移ろい変わるもの。
不確実性と移ろうものは信頼に値しない。
だから、他者を信頼してはならない。
移ろい変わるものを信頼すれば、必ず、移ろい変わるニセモノを信じさせられてしまうからだ。

しかし、【A・Course・in・Miracles】で言うように、真実は永遠に真実であり、移ろい変わるものでは決してない。

他者を信頼してはならないのは、移ろい変わるものを信頼することだからだ。人間は不完全性に属する。身体である時点で脆さは避けられない。信頼すべき、信頼可能な対象は、永遠であり、移ろい変わらない属性だ。

特別性を保護したいなら別だが、それは真実を断念する選択となる。

他者との特別な関係、あらゆる特別性を保護して偽りを信じ続けるか。
真実以外の全てを棄てて真実を追究するか。
真実を追究する上で、この2択でしかない。

真実だけを求めるならば、全ての特別性は棄てられなくてはならない。
それだけの話だ。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(4)
【A Course in Miracles】
個体の特別性誘引による弊害
西暦2016年1月24日:日曜日




西暦2016年段階概念:佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12115170669.html
前半
(1)【A Course in Miracles】特別な関係の再利用
(2)【A Course in Miracles】特別性におけるエゴの目的
(3)【A Course in Miracles】特別性の裏切り

西暦2015年段階の佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111785865.html

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
前半
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
(12)エゴが作った幻想の再利用
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
(14)身体は幻想・死はない
(15)【死の超越】の実態
(16)『罪の起源』の実態
(17)罪は幻想・罪はない
(18)罪の投影の世界構造
(19)スケープゴートへの罪の投影
(20)罪をでっち上げる世界
(21)エゴが罪悪感を作った理由
(22)罪悪感の投影の実態
(23)自分自身に対する戦いの実態
(24)【異世界レベル】の穴概念
(25)エゴが作った全ての再利用
(26)真の公平な視点
(27)「夢の主人公」の実態
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
(29)与えることと受け取ることは同等
(30)【A Course in Miracles】の実態
(31)【A Course in Miracles】世界はない
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
(37)【A Course in Miracles】聖霊
(38)【A Course in Miracles】死はない
(39)【A Course in Miracles】身体は幻想
(40)【A Course in Miracles】真実に対する防衛
(41)【A Course in Miracles】無防備は力
(42)【A Course in Miracles】聖霊への全託
(43)【A Course in Miracles】聖霊の計画
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
(45)【A Course in Miracles】実践:赦し

西暦2015年後半
(1)【A Course in Miracles】赦しの実際
(2)【A Course in Miracles】神概念
(3)【A Course in Miracles】真の世界
(4)【A Course in Miracles】原因と結果
(5)【A Course in Miracles】与える&受け取る
(6)【A Course in Miracles】与える全てを受け取る
(7)【A Course in Miracles】平和を知らせる意味
(8)【A Course in Miracles】6章:聖霊のレッスン
(9)【A Course in Miracles】peace
(10)【A Course in Miracles】第1:平和に対する障害
(11)【A Course in Miracles】第2:平和に対する障害
(12)【A Course in Miracles】第3:平和に対する障害
(13)【A Course in Miracles】第4:平和に対する障害
(14)【A Course in Miracles】miracle
(15)【A Course in Miracles】trust
(16)【A Course in Miracles】神の教師
(17)【A Course in Miracles】teach・learn
(18)【A Course in Miracles】権威問題
(19)【A Course in Miracles】judgment
(20)【A Course in Miracles】聖霊の判断
(21)【A Course in Miracles】夢の主人公
(22)【A Course in Miracles】the dreamer
(23)【A Course in Miracles】自己概念
(24)【A Course in Miracles】What am I?
(25)【A Course in Miracles】picture・frame
(26)【A Course in Miracles】seek・find
(27)【A Course in Miracles】外側を探し求めてはいけない
(28)【A Course in Miracles】偶像=全個々の存在=無
(29)【A Course in Miracles】全ての偶像を超えて
(30)【A Course in Miracles】幻想に隠された真実
(31)【A Course in Miracles】内側を見ること
(32)【A Course in Miracles】内側を見る恐怖
(33)【A Course in Miracles】隠された内側へ向かう実践
(34)【A Course in Miracles】たくさんの型;1つの修正
(35)【A Course in Miracles】1つの問題;1つの解決
(36)【A Course in Miracles】必要性の幻想
(37)【A Course in Miracles】根っこの問題と完全解決
(38)【A Course in Miracles】唯一の答え
(39)【A Course in Miracles】完全性・誤創造・償いの計画
(40)【A Course in Miracles】本当に求めること
(41)【A Course in Miracles】神の愛
(42)【A Course in Miracles】エゴの欺きの手段;特別性
(43)【A Course in Miracles】特別な関係のバリケード
(44)【A Course in Miracles】特別性の赦し
(45)【A Course in Miracles】特別性を棄てる




西暦2016年(年号:平成28年)
申(さる)年現在

【佐藤篤代について】

[本物:佐藤篤代がブログで言う核]
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界全てはエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

『世界は幻想』とは【人間レベル】で言うと仏教的意味合いに近い。


[佐藤篤代]

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

本物は将来性のないニート
(西暦2016年)
佐藤篤代は西暦2016年1月17日(日曜日)で40才
栃木県宇都宮市のド田舎生れずっと在住
日本人(血縁すべて日本人)
生まれてからずっと中肉中背
普通の容姿
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート
生涯未婚で子無し


西暦2015年段階概念
http://simplog.jp/comment/19063121/23

佐藤篤代の現段階の概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102633510.html

A Course in Miracles;世界は幻想という意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11740124334.html

西暦2016年版プロフィール
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111502426.html

43才になったらやらない一覧
http://simplog.jp/comment/11771884/23

ニュースリンク(西暦2014年4月~)
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102638099.html

【但し書き】必ずお読み下さい
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12101838092.html












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容赦なくツッコミします。そのコメント等の目的、大元を崩す為に容赦ないツッコミをします。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(4)
【A Course in Miracles】
個体の特別性誘引による弊害
西暦2016年1月24日:日曜日