A Course in Miraclesの中の用語「the frame of reference」とは「照合の枠組」と私:佐藤篤代は訳す。以下は、佐藤篤代の要点まとめノートの付属ノートに書いたものだ。ノートに書いたまま書く。みんなのブログとモバゲーは文字制限で入らないので小分けにする。この内容は、決定的なので激しく歪められる。かいま見えても、記憶を忘れるようにさせられるか、後々歪められる。

◎"the frame of reference"(照合の枠組)
照合の枠組というのは、エゴと共に見るのか、「聖霊(the Holy Spirit)」と共に見るのかということであり、真実と事実を伝えるために「償い(the Atonement)」と1つになり、「聖霊(the Holy Spirit)」と1つになっている存在たちが行うことによって、投影のみを見せられている存在たちにも、事実と真実がかいま見えることがある。それによって生じた視界の中の矛盾点を、最初のうちはエゴ的存在たちに"問いつめ"たり、たずねたり、確認をとろうとしてしまうのだろうが、これまで従っていた、あるいは頼りにしていた、あるいは信じて疑わなかった教える存在が実はエゴ的存在だったと気づかない限り、くり返し、真実の光がかいま見える時に、これまで通りの方法で、事実確認、矛盾の説明の照合をエゴ的存在にしてしまう。だから、再びまるめこまれ、エゴに欺かれ続けてしまう。その照合先が本当に欺くということに気づかない限り、それがくり返される。その照合先を安易に変えようとしても、違った形態をとった同じエゴ的存在につかまるだ
ろう。そのため照合先がエゴだったと気づいたら、独りぼっちで真実を見出すために行かなければならないと、もはやどの他の存在も信じられずに、独りで行動しはじめるかもしれない。そのくらい、周りは全部エゴの手先だと思える。そして最初はやっきになり、あせって、切迫してしまうにちがいない。孤独感ははなはだしいにちがいない。その進行の中、序々に、「聖霊(the Holy Spirit)」は何であるかに気づいていき、「聖霊(the Holy Spirit)」自体は話しかけたりしないのだ、言うなれば全影の中にかくされてある光のようなものにちがいない、「聖霊(the Holy Spirit)」は"あらわれ"のようなもので、その"あらわれ"によってのみ「聖霊(the Holy Spirit)」が本当に在るということが実感できるのみなのだと気づき、「聖霊(the Holy Spirit)」の計画は本当に完璧だと実感するごとに信頼が増していく。その「聖霊(the Holy Spirit)」への信頼の大きさは、自分自身の中の「聖霊(the Holy Spirit)」の光が
あらわれるようになっている大きさであり、影響力の大きさに比例する。その信頼が大きくなればなる程、照合先は自動的に「聖霊(the Holy Spirit)」のものになっているということだと思う。それは、人間だけでなく、他の存在たちも同じに違いない。"the frame of reference"とは、本当に例え話になるが、旅行会社の窓口のようなものかもしれない。サギの旅行会社の窓口へ問い合わせると、ウソのみ偽りのみを教えられ、旅行はさんざんになる(それがエゴの方)。事実と真実を提供し、誠実で信頼できる旅行会社の窓口へ問い合わせると、事実に基づいた情報を教えてくれるので安全に、しかもスムーズに楽々と旅行できる(こちらが「聖霊(the Holy Spirit)」)。もちろん、本当に例え話にすぎないが(注意:この世界の会社は完璧では決してなく「聖霊(the Holy Spirit)」とは比べ物にならない。本当に例えだ)、真実の光がかいま見えることによって生じる矛盾についての解答を求める窓口がサギで欺くエゴなら
ば、偽りの世界の中に再びとじこめられ、真実のみを教える「聖霊(the Holy Spirit)」ならば、それまでいた偽りのエゴの世界から解放される方法がやってきて、本当に解放へ向かっていける。エゴのthe goalは欺きの世界に閉じ込め苦痛の地獄の中に、一見そうとは見えない方法で、ぐるぐる永久にまわされ続けること。「聖霊(the Holy Spirit)」のthe goalは、その欺きのエゴの地獄の世界からの完全な解放だ。どちらを選ぶかは、その存在自体の意欲にかかっている。その意欲こそが、どちらの窓口(照合の枠組)を選ぶかを決める。真実と事実のみを求め続ければエゴの窓口をいずれ捨て去ることになるし、自動的に「聖霊(the Holy Spirit)」の窓口を選んでいる。


以上