レッテルをはることは、その対象を決めつけることだ。私は決めつけられることが酷く嫌だった。だけど、嫌なうちは、自分がレッテルを貼って、決め付けてしまっている証拠だ。レッテルをはることは、その対象への見方を制限することになり、そこから発展できるかもしれなかった可能性の芽をつむ。自分で判断し、レッテルを貼ることにより、何も制限しなければ、本当に自分にとって事実や真実を知る可能性が残る。一見嫌がらせに見えるものを、嫌がらせとして限定した見方で見ず、その中に「聖霊(the Holy Spirit)」を見るならば、その中に事実や真実を知る為のヒントを視ることになる。本当に型じゃない。その中に何を視るかだ。
私はある特定の名前やニックネームを使用するが、その名前やニックネームを使用する者は他にもいる。極めて珍しい名前やニックネームだろうが、他の者が使用している可能性は高い。私のブログに見える型が、絶対に私のブログとは限らない。タイトルが同じ型だろうが、中身は私が書いたものと同じとは限らない。違う所へ繋がる可能性が多々ある。以前私のブログだったから記録をしたものだとしても、次に新着やまだ見ていない所を開く時には、違う所へ繋がる可能性がある。このエゴの世界に絶対も完全もない。見る全て、この世界の全てを疑うべきだ。型ではない。
私はある特定の名前やニックネームを使用するが、その名前やニックネームを使用する者は他にもいる。極めて珍しい名前やニックネームだろうが、他の者が使用している可能性は高い。私のブログに見える型が、絶対に私のブログとは限らない。タイトルが同じ型だろうが、中身は私が書いたものと同じとは限らない。違う所へ繋がる可能性が多々ある。以前私のブログだったから記録をしたものだとしても、次に新着やまだ見ていない所を開く時には、違う所へ繋がる可能性がある。このエゴの世界に絶対も完全もない。見る全て、この世界の全てを疑うべきだ。型ではない。