外園澄夫先生の一生 ~大分県中津市出身の天才国語科教師~
私の父は祖母と親戚付き合いを大切にしながら教師生活を定年退職まで一度も休むことなく勤めあげました。母親と学校の子供たちのことを一番に思いやりながら、命と教育の健康のことについて深く考えながら生活していました。
老後のことを考えて、日々節約も怠ることなく、大分県教職員退職後に頑丈なマイホームと、私に成人式の贈り物として宝物となる晴れ着をくれました。
子供のころから、足がしびれるまで命の重さについて年に一度お説教をされ、ほとほと母はまいっていたようですが、その為に、大切な父の言葉をすべて聴きとれなかったことをとても後悔しています。
私がこの世に生を受けたのは父親が40代初めのころであり、父が生まれたのは戦時中の昭和10年頃だったと思います。その時代の日本は高度経済成長の真っただ中であり、日本には物資も木材もさることながら、食料さえも輸入に頼らざるしかない時代でした。今からしてみれば、考えられないことですが、本当に暗く先行き不透明な時代だったことでしょう。
祖母は60代をすでに超えており、見劣りの激しい体と着物を身に着けており、すでに女性としての役目も終えていました。困り果てた父唯勝(法名)は、後釜である若く美しい母を見初めて結婚を申し込み、猛反対された後に、晴れて婚約成立したとのことです。若く美しい母に戸惑ったと思われる祖母は、きっと困惑していたことでしょう。(つづく)