3 労働日および労働時間の長さと、それを巡る闘争
この説明は極端に単純化してあるので、後に修正しなければならない部分がある。1000円で売られている商品は一時間の労働を要したとする仮定などがそれに当たる。しかし、それとは別の箇所で奇異に感じられる部分があるはずだ。それは、資本家が労働時間を6時間から8時間、さらに10時間へと延長するという仮定だ(より「低い」賃金でより長く働いてもらいたいと考えるのは、資本家の利害から自然な仮定ではある。当然、たとえ長い労働時間であっても高い賃金を支払うことになるのであれば、資本家が望むものではない)。資本家と労働者がお互いに雇用契約を結ぶ際に、労働時間は明記されていたはずだからだ。これは、一つには歴史的な事情がある。時計が実用化されていない時代には、労働は時間単位ではなく、一日単位で契約されていた。労働日 labour dayという言葉が『資本論』では用いられるが、これは一日の労働時間のことだ。『資本論』の時代には、時計は労働者の日用品にはなってはいなくとも、既に工場には設置されていた。しかし、労働日の長さは可変的(資本家の都合で変えられるもの)だったのだ。
しかし、現代では労働時間は事前に雇用契約で決められていて、勝手に延長されることはない、仮に延長される場合でも超過労働手当が支払われるので、賃金は同じままということはあり得ないと誰しも考えるだろう。しかし、本当にそうだろうか。現実には、賃金が同じままで長時間働かされたり、サービス残業させられたりといった、弱い立場に置かれた労働者は少なくない。
ここでのポイントは、労働者の一日の労働成果に対して企業(資本)が支払う再生産費は、その労働者が4時間働いても、8時間働いても、大きく異なることはなかったということだ。4時間しか働かなかったので、労働者の労働力の再生産(生命&生活維持)費は8時間労働の場合の半分で済むということはあり得ない。なぜなら、全く働かなくとも、生存維持のための生活費は掛かるからである(食事や休養は疲労回復のためだけのものではないし、疲労は生きている限り、労働以外の娯楽や社交の場でも発生する)。また、労働者は出勤日以外の全ての年月の生活の糧を得るために働くのであって、出勤日の再生産の対価だけを得るだけでは生活(生存)することはできない。一日の労働力の再生産費と、その労働者が一日に働ける時間の長さは比例しない。剰余価値の生産はこの事実に基づくものだと、マルクスは考えた。
では、労働日の長さが8時間か10時間かは、どのようにして決まるのだろうか。マルクスは、それは商品交換のルールでは決まらないとした。資本家は、「労働力は私が買ったものなのだから、何時間使おうが私の自由だろう」と言う。1台の機械を購入した資本家が、それを8時間使おうが10時間使おうが自由であるということと同じだと。他方で、労働者は自分の労働力を過剰に酷使されたら、短期的には疲労やストレスから回復できなくなるし、長時間には寿命を擦り減らすことになり、労働力の販売を継続できなくなる。だから、労働者は労働力という商品の販売者の権利として、労働日(労働時間)の短縮を要求する。マルクスは、これはどちらも商品交換の法に基づいた正当な権利どうしの主張であるという。では、それはどのようにして決まるのか。マルクスは言う。「だから、ここでは一つの二律背反(アンチノミー)が生じるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法 Gesetzによって保証されている権利 (Recht=正義)対権利との対立である。同等な権利と権利との間では暴力(ゲヴァルト)がことを決する。」(『資本論』1巻8章1節)
ここではGesetzを法と訳したが、Gesetzは日本語の法律と法則(法理)の両方の意味を含む言葉である。マルクスは、このように書いた後で、当時のイギリスを参考に、この労働日(労働時間)の短縮を巡る闘いがどのようなものであったかを縷々記述し分析を進める。