4 労働力という「商品」

不完備契約という考え方がある。取引の際には事前に契約が結ばれるが、契約書には、その取引の結果生じ得る可能性を全て列挙することは現実的にできないという意味だ。そうすると、そこにさまざまな問題が生じてくる。上記の例で、もし仮に、労働時間の長さが事前に提示された契約事項に含まれていなかったとしたら、とんでもない不完備契約だということになる。『資本論』における労働日の章の記述は、その当時の労働契約が不完備であるという前提で書かれている。マルクスの時代はともかく、さすがに現代では、そのようなことはないだろうと思われるかもしれない。しかし、労資間の契約が不完備契約であることは、今日でも変わりはない。日本の企業などは極端な例だが、雇用契約の際には、どのような仕事をするのかは明示されないのが一般的だ。ある企業に入社して、経理の仕事をするのか、営業の仕事をするのかは企業側の裁量である。とはいえ、それは請負契約とも異なる。請負契約とは、例えば、タイル職人が風呂場のタイルを貼る仕事に対して報酬を得る場合のように、その仕事の結果に対して報酬が支払われるという働き方だ。その場合、報酬は結果によって担保されるので、一日に何時間、どれくらいのペースで仕事を進めるかは請負職人の自由である。しかし、雇用契約はそうではない。雇用契約では、決められた時間、雇用者の監督の下で、その指示に従って働く。その指示の具体的な内容は、予め雇用契約書には書かれていないし、現実問題として書けるものではない。

雇用契約では、労働時間の長さは雇用契約書に書かれていたとしても、その間、どのような仕事をどのように努力するかということは、事柄の性質上、契約書には明記できない。ある人は、脇目も振らずに働くかもしれないが、休日の予定ばかりを考えていて、上の空で仕事をする人もいるだろう。これを、労働強度という言葉で呼ぶとしたら、労働時間の長さを決めることはできたとしても、労働強度は決められない。そこで、実際の職場では、一定の労働強度を維持するための指揮監督が必要になる。つまり、労働強度の程度は、企業側の裁量である。資本家が剰余価値、つまり利潤を生み出すということは簡単なことではない。利潤の出ない状態(つまり赤字)では、資本家による労働者の搾取どころか、資本家による労働者への奉仕(逆搾取)になってしまう。しかし、唯一、何の失敗のリスクも損失も生まずに、命令だけで無から富を強奪=真の搾取できる存在がある。それが政府である(たとえ政府が赤字であったとしても、政府を所有している真の支配階級は無傷である)。資本家は、売れる商品を開発しなければならないという問題はさて置くとして、ここでの労働に関わる問題に関して言えば、不完備契約の難しさがある。上記の説明ではかなり単純化して、(労働時間の長さの問題を除けば)機械的なプロセスで剰余価値が産出されるかの如く書いたが、実際にはそんな簡単なことではない。8時間の労働時間が決まれば、その分の8時間の価値が機械的に生産され、剰余価値が生まれるのではない(労働者の熟練度の違いやモチベーションの違いもある)。資本家が購入したのは、あくまでも労働力という潜在力(ポテンシャル)に過ぎず、実際に価値を生み出すのは、具体的な労働の成果だからだ。そこで、労働時間から労働者の潜在能力(労働力)を顕在化させて、企業の利益貢献に寄与する成果をどれだけ生み出せるかという課題が生じてくる。

労働時間(労働日)の問題として説明した上記の余剰価値論は、労働時間からどれだけの有益な労働量(労働成果=スタッツ)を抽出できるかという問題と切り離すことができない。資本家が、4時間分の労働時間に相当する賃金で、労働者をたとえ拘束できたてしても、実際に効果的に労働するかは別問題で、その働き方次第で、獲得できる剰余価値の大きさは異なってくるからだ。

まとめに入ろう。人間は機械ではない(選択の自由を持った主体的な存在であり、人間を完全にコントロールすることはできないしすべきではない)という真理を、再確認すべきである。人間は直接機械のようにコントロールできない、しかしコミュニケートすることで間接的に影響を与えることは可能だ。労働者も人間である。だから、モチベーションの向上やインセンティブの付与という問題が企業の剰余価値獲得の根本課題になる労働者の潜在能力を顕在化させるための環境やシステムづくりも、企業のマネジメント層の重要な仕事である。このように見ていくと、マルクスを超えた視点が見えてくるのではないだろうか。