1 等価交換に基づく利潤の説明

マルクスは利潤の発生について、それを等価交換で説明するという課題を自らに課した。詐欺瞞着でもなければ強奪でもなく、商品交換のルールに基づいて行われる正当な行為の結果として利潤は生じるのだということを説明しようとした。不等価交換を強いられているのだという説明であれば話は単純だが、そのような説明では済ませたくなかったのだ。しかし、他方でそれは静的な均衡世界ではなく、ダイナミックな社会的闘争の場となることをも同時に示したのである。

では、その場合、商品交換のルールに基づく等価交換とは何かというと、コストつまり生産費を支払うということだ。互いに生産費が同じ商品同士を交換するのが等価交換である。これは、コストと言っても、実際に掛かった費用というよりは再生産費だ。つまり、他人にに労働者自体を渡すと無くなってしまうわけだから、それを再び手に入れるために必要な費用ということになる。再び(つまり継続的に)労働者を手に入れられれば、その労働者を継続して雇用し、生産物を販売できる。そうすれば、システム全体の再生産が可能になるのだ。つまり、個々の生産者(資本家)が労働力と設備の再生産費を得ることは、今ある秩序(資本制生産様式)を維持するために必要なのである。

では労働者が相手(雇用主)に渡すものは何か。言い換えれば、何の対価に対して賃金を受け取るのか。賃金が労働という行為に対する対価だとする場合、労働の生産費(再生産費)とは何かという問題になる。しかし、労働(という行為)そのものの生産費(コスト)という概念は成り立たない。労働とは労働者が行う活動万般そのものであり、企業の利益に対する貢献という結果を保証しないからだ。そこで、先ほどの説明に戻ろう。労働者が明日も同じように働ける条件、あるいは機械や設備が明日も同じように動き続ける条件が再生産されるということが、生産が保証されるということだ。

ここで、労働(そのもの)と労働力を区別する必要が生じる。資本家に販売される商品は企業の利益貢献に寄与する労働成果であって、労働ではない。労働成果が企業利益に貢献し得る有形無形の生産物をスループット(産出)する。明日の朝、用意されなければならないものは、労働(実際に働くという行為)ではなく、企業の利益貢献のために働き得る「能力(労働力)」だ。そして、その能力が再生産され、実際の労働を通じて、労働成果という結果を生む。労働するための潜在的な能力(労働力)が生産の場面で実際に行為として顕在化されたものが労働だ。そして、その労働を通じて、企業(資本)の利益貢献に寄与する労働の結果が労働成果である。労働者と資本家が雇用契約を結ぶ時点では、まだ実際の労働は行われてはいない。資本家は、労働者が実際の労働を通じて、必要な労働成果を生み出し得る潜在的な能力を持っていることを見込んで、その潜在的な能力=労働力(の再生産)に対する購買契約を結ぶ。つまり、雇用契約とは労働力の交換に関する合意である。この労働力(労働者が生産物を生み出すために労働を行う能力)は、石炭のような他の投入物と同等に使われれば無くなって(消耗して)しまうとマルクスは考えた。これは、少々大胆な仮定だ。マルクスが考えたことは、労働者が一日働くと体力が消耗し切って、そのままでは労働するための力(能力というより体力)が残っていないというような状況であろう。翌日も再び労働者として働くためには、食事をし休息を取ることが絶対に必要だ。それがつまり、労働力の再生産ということになる。その再生産費が、労働力という商品の価値であると見做せるのである。