友人の祖母が亡くなった。
彼女の到着するのを待っていたかのように。
人とはパワフルだ。
最後の最後、自分の意志で逝くことが出来るのだろうか。

私の父は11年前に死んだ。
癌を煩っていた。
心臓病が隠れ蓑になり、
冬のある日、お風呂場で倒れるまでそれに氣づかれなかった。
もうその時はどうにもならないところまで来ていて、
彼は抗がん剤のボックスを身体に装着することを拒んで
その年の秋、命を終えた。
彼はゴルフが好きだった。
そのボックスを着けていてはそれが出来ない。
もし、生きられる期間がしれているのなら、
すべてを奪われるのはイヤだと思っていたのかもしれない。
私もそれに同意した。
私だったら、死ぬことがわかっているのなら苦しい思いを長引かせるのはイヤだと思った。
その年の夏、階段をヒラヒラと歩く彼の後姿を見て、
『もう来年の夏はやって来ないのだろうな』と思った。
発見から7ヶ月。
9.11の直後だった。
彼の亡くなった日、私たち兄弟は病院に呼び出されていた。
親戚のおじさん夫婦も来ていた。
彼はもうずっとモルヒネを打たれて寝たままだったが
私たちは彼の普段と変わらぬ様子を観て
一度家に帰ることを選択した。
実家から東京へ戻る高速バスの中、
無性にラーメンが食べたくなった。
東京に着いてすぐ、母から連絡があった。
「お父さんが亡くなった」と。
たぶん、ラーメンを食べたくなったあの時、
父は旅立って行ったのだろう。
彼はラーメンが何よりの好物だった。
父の旅立ちは、ほんの少しの間、母が病室を出て電話をかけに行っていた間だったそうだ。
彼は母のことをビックリするくらい愛していた。
だから、自分の死を母に見せたくなかったのだろう。
癌の痛みが身体中に回り、どんなに苦しくても決して痛いとは言わない人だった。
私たち兄弟をその場に居させなかったのも
きっと父なりの思いやりだったのだろう。
お陰で深夜の高速をぶっ飛ばしてとんぼ返りするハメになったけど^^;

祖母の時もそうだった。
彼女は98歳で、亡くなったのは骨折が原因だった。
とても瀟洒な明治女で、戦時中から和裁の仕事をして家計を切り盛りしているようなひとだった。
その骨折も昔ながらの重いミシンをひとりで持ち上げようとしてしたらしい。
小さな身体で気概に溢れ、だから母ともよくぶつかり、
いつも歌を歌っていた。
骨折してから何日か経ったある日、
布団を畳んだその前に腰を下ろして、動けなくなっている祖母がいた。
そのまま病院に搬送されたが、
私が到着した時には、その小さな身体、口から繋がれたチューブから真っ黒な血が流れていた。
もう意識もなく、いつ逝ってしまってもおかしくない状態の中で、
祖母はずっと待ち続けていた。
一番下の息子を。
彼は早くに親元を離れ、北海道に住んでいた。
「おばあちゃん、来たよ」
彼の到着、それを確認したかのように祖母は呼吸を停めた。

私は父が亡くなったとき、大きなものを失ったのだと初めて氣がついた。
人は生き、そして死ぬ。
そんなことは当たり前のことだと思っていた。
だけど、本当に目の前からその人が居なくなったとき、
それは旅行に行ったり、もう会わなくなってしまった時とは違うんだなと思った。
人ひとり。
それは小さな存在にみえるかもしれない。
だけど、その人の中にはそれはそれは大きな図書館があって
その人しか知らない世界がある。
彼らの歩いて来た軌跡、
小さな頃に連れて行ってもらったあの場所や
大好きだった花の名前、
それさえももう訊くことは出来ない。
そう思った。
だけど、それからまた何年も経過して、
みえない領域へアクセスしてみる時、
失われたものなんて何もないのかもしれないなと思っている。
いつでも呼び出そうとすれば、
そこにその世界が展開されるような氣がしている。
その同じエネルギーも私がどう観じたいのかそれによっていくらでも変わる。
もし、私の心がそうだと観じたなら
それは本当にそう在るのだろうと思う。
いつでも何処でもその失われたかにみえるエネルギーを観じることは出来る。
でも、そう思うのには時間がかかるのだろうな。
よく『胸にポッカリと穴が空いた』
そういう風にいうけれども、
それは本当に訪れる。
私の穴は3年間塞がれなかった。
あんなに嫌いな父だったのに。
誰にでも訪れる出来事だけれど、想像するのと経験するのには雲泥の差がある。
どんな場合にも必ずということはないし、
どんな想いにも必ずということはない。
その経験をいただけることにただただ感謝を。
お父さん、おばあちゃん、ありがとう。
彼女の到着するのを待っていたかのように。
人とはパワフルだ。
最後の最後、自分の意志で逝くことが出来るのだろうか。

私の父は11年前に死んだ。
癌を煩っていた。
心臓病が隠れ蓑になり、
冬のある日、お風呂場で倒れるまでそれに氣づかれなかった。
もうその時はどうにもならないところまで来ていて、
彼は抗がん剤のボックスを身体に装着することを拒んで
その年の秋、命を終えた。
彼はゴルフが好きだった。
そのボックスを着けていてはそれが出来ない。
もし、生きられる期間がしれているのなら、
すべてを奪われるのはイヤだと思っていたのかもしれない。
私もそれに同意した。
私だったら、死ぬことがわかっているのなら苦しい思いを長引かせるのはイヤだと思った。
その年の夏、階段をヒラヒラと歩く彼の後姿を見て、
『もう来年の夏はやって来ないのだろうな』と思った。
発見から7ヶ月。
9.11の直後だった。
彼の亡くなった日、私たち兄弟は病院に呼び出されていた。
親戚のおじさん夫婦も来ていた。
彼はもうずっとモルヒネを打たれて寝たままだったが
私たちは彼の普段と変わらぬ様子を観て
一度家に帰ることを選択した。
実家から東京へ戻る高速バスの中、
無性にラーメンが食べたくなった。
東京に着いてすぐ、母から連絡があった。
「お父さんが亡くなった」と。
たぶん、ラーメンを食べたくなったあの時、
父は旅立って行ったのだろう。
彼はラーメンが何よりの好物だった。
父の旅立ちは、ほんの少しの間、母が病室を出て電話をかけに行っていた間だったそうだ。
彼は母のことをビックリするくらい愛していた。
だから、自分の死を母に見せたくなかったのだろう。
癌の痛みが身体中に回り、どんなに苦しくても決して痛いとは言わない人だった。
私たち兄弟をその場に居させなかったのも
きっと父なりの思いやりだったのだろう。
お陰で深夜の高速をぶっ飛ばしてとんぼ返りするハメになったけど^^;

祖母の時もそうだった。
彼女は98歳で、亡くなったのは骨折が原因だった。
とても瀟洒な明治女で、戦時中から和裁の仕事をして家計を切り盛りしているようなひとだった。
その骨折も昔ながらの重いミシンをひとりで持ち上げようとしてしたらしい。
小さな身体で気概に溢れ、だから母ともよくぶつかり、
いつも歌を歌っていた。
骨折してから何日か経ったある日、
布団を畳んだその前に腰を下ろして、動けなくなっている祖母がいた。
そのまま病院に搬送されたが、
私が到着した時には、その小さな身体、口から繋がれたチューブから真っ黒な血が流れていた。
もう意識もなく、いつ逝ってしまってもおかしくない状態の中で、
祖母はずっと待ち続けていた。
一番下の息子を。
彼は早くに親元を離れ、北海道に住んでいた。
「おばあちゃん、来たよ」
彼の到着、それを確認したかのように祖母は呼吸を停めた。

私は父が亡くなったとき、大きなものを失ったのだと初めて氣がついた。
人は生き、そして死ぬ。
そんなことは当たり前のことだと思っていた。
だけど、本当に目の前からその人が居なくなったとき、
それは旅行に行ったり、もう会わなくなってしまった時とは違うんだなと思った。
人ひとり。
それは小さな存在にみえるかもしれない。
だけど、その人の中にはそれはそれは大きな図書館があって
その人しか知らない世界がある。
彼らの歩いて来た軌跡、
小さな頃に連れて行ってもらったあの場所や
大好きだった花の名前、
それさえももう訊くことは出来ない。
そう思った。
だけど、それからまた何年も経過して、
みえない領域へアクセスしてみる時、
失われたものなんて何もないのかもしれないなと思っている。
いつでも呼び出そうとすれば、
そこにその世界が展開されるような氣がしている。
その同じエネルギーも私がどう観じたいのかそれによっていくらでも変わる。
もし、私の心がそうだと観じたなら
それは本当にそう在るのだろうと思う。
いつでも何処でもその失われたかにみえるエネルギーを観じることは出来る。
でも、そう思うのには時間がかかるのだろうな。
よく『胸にポッカリと穴が空いた』
そういう風にいうけれども、
それは本当に訪れる。
私の穴は3年間塞がれなかった。
あんなに嫌いな父だったのに。
誰にでも訪れる出来事だけれど、想像するのと経験するのには雲泥の差がある。
どんな場合にも必ずということはないし、
どんな想いにも必ずということはない。
その経験をいただけることにただただ感謝を。
お父さん、おばあちゃん、ありがとう。