続・教育のとびら

続・教育のとびら

教育・成長・人の発達・組織論などのブログです
(旧 gooブログ『教育のとびら』を継承)

主宰 福島 毅(どんぐり)

こんにちは。どんぐりです。

教員の仕事負担の問題は、もう再三にわたり話題になっていますし、精神的にも追い詰められているという報告が後を絶ちません。
記事:心が壊れる前に辞めました…〈月収30万円〉28歳の中学校教師が明かす「月120時間残業」の壮絶な日々

 

こうした場合の改革案がいろいろ出されていますが、方法論から論じたもの(部活動の外部委託、IT推進による業務効率化)は、付け焼刃的な解決策にしかならないのです。

ここで、どんぐりから、抜本的な解決策の哲学を語りたいと思います。


従来の教育論では、「児童・生徒に何を学ばせるか?」というコンテンツベース、能力ベース、コンピテンシーベースのものが多いわけです。そうなると、あれもこれも上積みはすべて教員にかかってきてしまう。しかも複雑多様化する社会においては、ニーズも指数関数的にあがるので、なおさらスーパーな教員が求められ、現場は応えきれないという現状を迎えます。

 

発想が逆なのです。

①本来、教員がすべきことは、教育環境を整えたり、学びの主体者である児童・生徒のサポートをすることであり、その本質的な業務の仕事量を見積もる。

②必要なリソースは、教員の勤務時間でできる(学校での残業や家の残業はなし)ことのみに絞り、残業時間が発生する業務をしないという拘束条件から、逆に教員ができることを明確化し宣言する。(学校や行政など)

③②のリソースでできる範囲という条件で教育環境を整備する。つまり、コンテンツ・コンピテンシー・能力ベースからの仕事量ではなく、教員が健康に健全にできる仕事量で規定される。

 

では、③でカバーできない教育活動はどうするか?
それは民間や地域社会やオンラインなどで補っていく。自助・共助・公助の考え方で。

 

つまり、

「教育では何をすべき」というコンテンツ量から仕事を決めるのではなく、
「健全に働ける教員の健全な仕事量」から逆算して学校側が提供できることを決める

 

ということです。

 

この発想を使わない限り、方法論の制度改革はどこまでやっても過労の沼から抜け出せないことでしょう。

 

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