3.11の2:46p.m.はこのETVの番組ロケ中だったとのことで、そのときの映像が冒頭に流れました。東京も結構なゆれだったことがわかります。
ベテラン音楽人へのインタビュー、若手ミュージシャンとの対談そして細野さん本人へのインタビューをとおして、時代の先端を音楽で切り拓いてきた彼の軌跡を辿り、今、何を考えどう音楽と向き合おうとしているのか、震災から2ヶ月を追った番組です。
「音楽家はどうやって暮らしていけばいいんだろう。
基本的な生き方を決めなきゃいけない。そこまで考えてますね。」
終戦の2年後に生まれた細野さんが、自分と音楽を見つめなおしている。
細野さんといえばYMO。
その前にはっぴいえんど。日本語ロックの開祖。
小山田圭吾さんが、
「日本のロックとかポップスとかを遡っていくと、細野さんの前には歴史がない。」
って言っていたのが印象的でした。
日本の音楽シーンの道筋をつくり、常に最先端を走っていたひと。
坂本龍一は細野さんについて、
「日本のポップロックあるいは歌謡曲や大衆音楽も含めて2段も3段も底上げをした人間の一人」
と評します。
聖子ちゃんに曲を提供してたのは知っていたけど、荒井由美のアレンジや演奏をやっていたというのは知らなかった!
番組にはユーミンも出てきて、
「まったく無い音楽だったと思います。セッションしていた時も、ベースをされてると言うより全部ラインを作曲されているようだった。」
と当時の印象を語っていました。
この曲↓のアレンジなんか今聴いても新しい。
そうか、ニューミュージックというジャンルを作った人だったんですね。
私小学生の頃からニューミュージックをこよなく愛していましたので、これにはびっくりでした。
その後、YMOで人気者になりすぎて疲れてしまい、芸能人みたいになっていろいろな制約が出てきて、『またライディーンみたいな曲を作ってくれ』と言われるようになったり・・・、そういうのが嫌になってYMOを散開した。
バブル期には、すごく違和感を感じて「ひきこもり」の時期に突入。
中沢新一さんと共に霊地をまわったりしてたどり着いたのが、歌詞もメロディーもイントロもサビもない、静かで穏やかなアンビエント音楽だった。ほかの事はぜんぶ遠い陸地で騒いでる、自分と関係ないことと感じ、スタジオに引きこもって新しい音の響きに没入した。
不思議とその頃、世界中で同じように、アンビエントを作る人が存在していた。
ドイツ、イギリス、アイスランド、オーストリアあたりが多かった。
その音楽は消費されるものではなく、世界とのコミュニケーションツールだと感じた。
音楽はこころ、個性の伝達手段と感じた。
YMOの再結成については、
「自分のやったことが消えずにあとから追いかけてくる。YMOがそう。人生は一直線ではなく、螺旋階段。上から見ると同じところに帰ってきているようだけれど、横から見ればどんどん上がっていってる。」
これは面白い喩えですね。
私は、横から見て果たして上がってるだろうか・・・
ちょっとどきりとさせられました。
くるりの岸田繁さんとの対談。3.11後の心境を語り合う。
ふたりとも、しばらく音楽に手がつかなくなったという。
岸田「震災以降、幸せって当たり前のことなんじゃないかと気づき始めてる人がたくさんいるんじゃないかと思う。ぼくもそうで。」
細野「ぼくもそうだね。普通でいたいということをこれほど意識したことはない。今回だんだんわかってきたことは、ぼくが一番好きな時間っていうのは、自分の家のきたないソファーに座ってきたないギターをつまびいて曲を作っている時が一番幸せなんだって気がついた。今までうまく表現しようとすることにとらわれ過ぎていた。」
岸田「そのまんまっていうのが一番いいんじゃないかって思って」
細野「そう、無理しないほうがいいよね。それがぼくのこれからのテーマだね。下手でも朴訥でもいいからそれを大事にしたいと思ってる」
細野さんは青地に白のボーダーのパーカーがとてもお似合いでした

「東京の街が暗くなって、ともしびが如何に心が温まるかと感じた。
音楽もともしびだとしたら、そうありたい。」
by 細野晴臣