2021年。明けましておめでとうございます。
昨年は世界中で大変な事が続き、インドも厳しいロックダウン。ブログの発信がまるで命綱のようでした。
インドの下町が運命共同体だけど、何が起こりどう動くのか。。先の事は全く分からず、ひたすら規則正しい生活を心がけたり。
今思うと多くの自然災害や森林火災も、この人災を予兆していたかのよう。自然破壊や資源の乱用、経済・物質至上主義は終焉を過ぎたと私は感じていて。
ヴェーダの教えでは、25,920年間あるユガと言う4段階のサイクルの中でも、最後の「カリユガ」と呼ばれる無知と罪の時代は終わり、現在は少しずつ知恵を取り戻す三番目の「ドゥワパラユガ」の末の時代。
あと61年ほど、2082年には「トゥレタユガ」という2番目の時代に入る。そこでも人口増加による食料不足などの問題は懸念されるとか。
その次に来る1番目の「サティヤユガ」はゴールデンエイジと呼ばれ、真実と調和の時代なのだそう。つまり、最悪は過ぎたということ。
Sadhu Guruと Isha Foundationよる解説図。(Sadhguru on Yugas (We are in Dwapara Yuga), Significance of 108, Speed of light in Surya Sidhand より。)
ユガとは、太陽系が宇宙の中心近くにある恒星の周りを大きく一周するサイクルだそう。4つの時期に分けている。地球が太陽を一周する時に四季が生じる現象と似ている。
去年は私の日本の仕事はキャンセル、帰国も叶わなかったけど、行き当たりばったりの往復生活は見直すべき時期だったと思う。逃げ場のない中で、これまで何を避けて来たのかをしっかり見て、やりたい事や使命と向き合う努力をする時期。
夫に言わせると「2020年はずっと一緒にいられたね!」と。良くも悪くもね。笑
振り返ると、ずっと許せなかった夫の行動が、今は「どうでも良く」なった。夫の一番好きな部分(おおらかさ)と表裏一体だと気付いて。何より、夫の最善は夫にしか分からない。
私の最善も、私にしか分かってあげられない。
お互いの最善を許すことで、帰るべき場所に帰着した時のような安心感がある。
閉じ込めた心の境界線を、インドは悪気なく踏んでくる。去年も夫の家族や友人ご近所さんが、わざわざ私の心の鏡になってくれて。笑
おかげで今だかつて発揮したことのない感情が復活。それでようやく毎日瞑想する習慣が出来たようなもの。
以前「トラウマ卒業」と書いたけど、まだまだ抑圧した感情や自覚のない在り方と毎日対面している。自らを傷つけるトラウマのループから抜けても、気づきに卒業はないんだよね。
夏にひっぱたいちゃった義弟も、売られた喧嘩を倍返ししてしまった義兄も、驚いたことに全く根に持つことなく普通に接してくれる。それは(インド人=優しい)のではなくて、「悪意を持たない」という教えを守る努力をしているからだと思う。
そしてその道徳は、相手より自身の精神衛生のためらしい(←自分軸最強)。私の真意を伝えるきっかけともなり、強烈に記憶に残る日々になった。
さて昨年末。クリスマスと大晦日は料理三昧。お気に入りのワインも頂き楽しく1年を締めくくることができた。インドの祭事は祈祷がメインで食事はさっさと食べるだけ。しかしさすがに気合いを入れた食卓に夫も何かを察し、文明人ぽく(笑)会話を楽しみ、録画の紅白も見る事ができました。
夫は恒例のオンラインゲームで仲間とお年越し。ここ下町では外で子供が爆竹を鳴らす以外、まるで年末を祝う習慣がない。「爆音に心を乱されずに瞑想を続ける鍛錬」も、酔うと全然効果的じゃないけど、瞑想で終われた2020年に感謝。
元旦は一日中、大気汚染の混じった深い霧の中。どんな初夢かな?と期待していたけど、何とも不快な感覚に目を覚ます。ここ1ヶ月ほど夢がリアルだったり、不快感だけ残ったり。
瞑想を続けると、夢を見ている最中も「これは夢だ」と意識出来るそうだけど、まだそんな段階は遠いよう。
結局、潜在意識下に眠る「怒り」をハッキリ自覚した元旦だった。
それは「敵意」の様な感覚で。
現実には怒る理由はないから、毎朝目覚めると忘れてしまう。でも、寝ながらうなされている。たまに隣で寝ている夫を押しのける事も。夫、理由のない私の敵意の的になっているのか。。
今年の抱負は三次元的な望みより、まずはこの怒りを意識に上げてみることかな。
記憶にないのは幼少期や過去生の感情だからか、それとも現世で力づくで封印したのか。認めたくない過去と、どう対峙しよう。
無意識の闇と、言語化には関係性があると思う。
言霊という概念があるように、なかった事にされて日の目を見ない感情も、意識に上げて言葉で表現することで、行くべき場所に流れ行くように思う。どんな思いも、自分勝手に執着して留めてはいけない。
言葉にすることは私にとって Contemplation(塾考)という瞑想の大切な一手法。なので今年も心と繋がる試みを記して行きたい。
(お見苦しいかなって記事はアップを自粛します。笑)
見えない心の世界に惹かれ続け、20年以上前に出会ったヨガが忘れられずにインドに来て夫と出会い、今は帰国出来ずに瞑想していることを、偶然と思うのはもう止めようと思う。
私の20代はうつ病のグレーな世界の中、外聞を保つことで精一杯だった。医療機関と心理ワーク、カウンセリングは命を救ってくれたと思う。でも、私の魂を救ったのは私自身だったことは確か。
だから何事も自分次第っていう実験は続けて行きたいんだけど、それだけではなくて。
運命の半分は、この大宇宙の神秘の手中にあるのだと思う。私たちが忘れてしまった叡智の中に。この時代、ヨガや瞑想などの内なる神性と繋がる手法の復興と共に、また思い出して行くのかもしれない。
心の扉を開く方法を、秘密にする必要も商売にする必要もない。師から徒へ伝える必要があるのは、確実に継承するためだったそう。今ではオンラインで直の教えは急速に広まり、留まる事のない流れ。
インド占星術を学んでも、自由意志と外界からの作用は「五分五分」という理解に行き着く。
どんな時も、疑ったり希望を失う必要はないことが分かる。巡り巡って思いがけない幸運が与えられる事もある。人間が全てをコントロール出来るという奢りや執着に陥る必要もない。破壊的な因果応報さえ働かなければ。
この世界の環境を破壊し続ければそれなりの見返りが巡って来るのは明らかだ。
だから、もっと環境に優しく、微細な内なる声を聞ける耳を持ちたいし、相手の心からの望みに寄り添うために、それに気づける強さと繊細さ、実践を養える一貫性を持ちたいと願う新年。
手放し。共有し。循環し。
私の苦しみは私だけのものではなく、時代やコミュニティーの共通意識の中で滞っている歩みだ。
解放して行きたい。
私の喜びは私だけのものに留めずに、周りと共鳴出来るのが理想の姿。
分かち合ってみたい。
遊びでも逃避でも商売でもなく
心と繋がる道を歩いて行きたい。
(3次元で食べていく道も!笑)