大切なものって? | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

20代の終わり、玄米菜食カフェに勤めた。
 
毎晩終電で帰るデザインの仕事は、夢とは違う現実で、よいよ身体を壊しかけていた頃。
 
アパートの向かいの古民家に、黄色いワーゲン🚌が停まった。覗いて見ると、若者たちが自ら改装してカフェを創っていた。
 
そのまま世間話がてら私も働いてみたいなぁと言うと、次の日には面接、翌月にはホールに立っていた。おばちゃんが作る料理は優しい味で、流行りのマクロビメニューもあった。パートの姉さんたちはパワフルで、才能溢れる若い子たちは、毎週アートや音楽のイベントを繰り出した。

3食まかない付き、いつもたくさんの人の中にいて、笑顔や優しい言葉があって。
 
私が大切にしたい価値が何なのか、ようやく思い出した日々。
 
人の間にいること
自然の物を食べること
手間をかけること
表現を楽しむこと
夢を語ること。
 
自分らしさ全開の仲間の中ですっかり元気になり、再び自分の夢に向かうため、2年後そのカフェを後にした。

あれから10数年。巡り巡ってインドに住んでいるのは、偶然ではないのかも。
 
 
今住んでいる町は、人と人との距離が近い。
朝から晩まで誰かが誰かを呼ぶ声がする。笑
 
子供たちの遊ぶ声や泣き声、家族がベランダ集う時の表情、スパイスを叩いて粉にする音、チャパティの焼ける香ばしい香り、干された洗濯物の種類などで、近所の人たちのことが大体分かる。
 
ここには確かに、手間ひまかけた生活、人の間にまみれる暮らし、添加物のない食事、笑顔の絶えない毎日。。そんなものがある。
 
自分が本当に大切にしたいことは、必ず目の前に現れると言うけれど、本当にそうかもしれないね。
 
でも逆に、本当に大切にしたいこと以外は、そうは叶わないのかも。
 
私の大切にしたいことは、何故か日本ではなくインドに現れた。だから苦労もコミコミで叶った夢。私たち夫婦にはお金はないし、便利な家電もお洒落な部屋もない。
 
世界はうまく出来ていると思う。笑
 

最近、ない物ねだりをしてる自分に気付いた。周りと比べてガッカリしたり、人並みじゃないと焦ったり。
 
でもその羨ましく思うもの、キラキラした誰かの何かは、私にとってそれほど大切じゃなかった。大切なものだけ追いかけて、このインドまでやって来たのに。

大切なものは、目に見えないものかもしれない。
その人にしか分からない価値かもしれない。
 
本当は、持たざる者を憐れむ必要も、そのことを怖れる必要もないと思う。
どこの世界の誰にでも、その人なりの幸せが用意されている。
 

辛い出来事だって、ちゃんと役割がある。
 
私は
いっぱい挫折しなければ
大切なことに目覚められず、
心を病まなければ
人の弱さに寄り添えなかったし、
病気でなければ傲慢だったろう。

子供ができていたら、きっと夫と離れ離れ。
私たちの天使は、それを知っていたのかな?
 

流産を繰り返した時。いい年をして絶望して、あると思っていた自信はぜんぶ崩壊した。インドに住めど現地語も話せず、仕事も毎月のお給料もない。
 
あると思っていた自信は私のものなんかじゃなく、日本や社会に与えられたもの?
 
もうダメだわ私、と、ドラマチックに落ち込んだのに、隣のインド人はさっぱり理解してくれなかった。
 
自分を恥じるなんて、おかしいよって。
自信なんて、自分勝手に失っちゃいけない。
必要なものは全部、神さまに与えられている。
だから心配せず笑っていれば良い。
何もしなくてもいいからと。笑
 

私が大切にしたかったものは
ここにあるんだよね、全て。
 
たまに見失うけれど。笑
 
 
周りと比べたり、無理して社会に合わせたり、常識をふりかざしてみたり、見てみぬふりをしたり、長いものに巻かれたり、人目を気にしたり、人並みに出来ないと恥じたり。
 
そういう時があって、大切なものが見つかる。
挫折しても絶望しても、誰にも奪えないもの、失うこともできないもの。
 

大切なものは多分、今ここにあるもの。

公園で寄り集まって座ることの多いのが、インドの好きなところ。