ま、なるようになる | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

この2週間

期待、希望、夢が膨らんでいた。

 

もしかしたら、これまでよりもっと

ここにいる意味が見いだせるかもと。

 

私は、夫と一緒にいるためにインドにいる。そして、当初インドを訪れた目的でもある、ヨガや瞑想などの精神世界にもっと触れたいという欲もある。今は2人になった生活をもっと充実さなくてはという焦りも。

 

 

何とかしなくては。

 

 

気が付けばそんな焦燥感、フラストレーションをいつも抱えていた。

 

ここでは知らないことばかり。少し覚えて少し好きになる度に、新たな現実と、さらに何とかしなくちゃという思い、そして圧倒的な失望にさいなまれ、葛藤してしまう。

 

この土地の現実は、知れば知るほどに、私に選択を突きつけて来るようだった。慣習に服従したように見える人々。自由や快楽を恐れる風紀。責任を回避したがる風潮。異質なものに対する冷ややかさ。そんなものばかりが際立って、静かに心に積もっていたかもしれない。

 

本来の私が愛する表現の自由や、個人の持つ可能性や、多様性を認めてこその豊かさ、遊び、喜び、尽きない好奇心、オープンな議論から生み出される新しいアイデア、より良いやり方、夢を形にして行くこと、生きて成長し続ける実感。そういうものが滞って感じられたからかもしれない。

 

夫のことは大好きだけど、この広大な混沌の中、2人だけのアパートで向き合っていても、そこに意味を生み出せる限界があった。40過ぎまで社会の中で生かされてきた。急にインド人の様にも、専業主婦にもなれる訳もなく。

 

 

何か出来ることはないかと、外に外に求めて行くのは自然だったかもしれない。

 

 

窮屈なコロニーから少し外に出て、夫のバイクで40分の朝の通勤。2年も住んでいたのに見たことのなかった毎朝のインドの通勤ラッシュ。普段買い物のついでに見るのとはまた違った、エネルギーに満ちた風景が目に映る。

 

高級車の役人も、平均月収3万以下と言われるインドの労働者のバイクの群れも、物乞いのおばさまも、道路脇の露天も、みな一様に1日のスタートを切る。時に我先にと競り合い、時には順を譲り、これから始まる1日への期待と高揚の大きなうねりは、前へ前へと進んで行く。

 

昨夜見た、憐れみをまとってタクシーの窓をノックするはずの子供たちは、今朝は学校に行ったのだろう。母親の手伝いをしているかもしれない。市営バスにはメイクも凛々しい若い女性が目立つ。私の様に夫のバイクで勤務先に向かう働く女性もよく見られた。

 

スラムと呼ばれる集落にも、朝の活気が訪れる。リキシャも、馬車も、学生も、サリーのお母さんも、それぞれの生きる目的に向かって、朝の道路を闊歩する。この2週間、毎朝目にした風景はとても新鮮で、明日への希望と生きるエネルギーに満ちていた。

 

それで私は、もうインドの心配はしないことにした。笑

 

インドの心配より、自分の心配。

 

本当、そこに尽きる2週間の色々だった。

 

 

社会に対して「何かしなくては」という気持ちは、その人の個人的な経験や思いが背景にある。だからこそ強く突き動かされ、基盤があるから物事が成される。けれども、思いや経験が未消化で、未熟なままでは危ういものだ。社会や他者に対して影響を及ぼす行為が、未消化なストレス発散や私的な成長の実験場なのだとしたら。

 

まずいなぁ。と感じた。

 

例え求められたとしても

お互いに、履き違えちゃってる。笑

 

 

これはあくまで今の私の話。だって私も、自己実現と成長の過程でいくつかボランティア活動をして、その懐を借りて学ばせてもらって来た。何度も限界を見て、泣いて、もがいて、自分の居場所を見つけて来た。迷惑もいっぱいかけながら笑。だから「自分探し」をダサいと思う程冷めてはない。

 

 

でも今は、自分を見失ってる場合じゃない。

 

異文化の国で社会に出ること自体、それなりの難しさがあると思う。それはデフォルトとしても、この、毎朝見せつけられるインドの生きるエネルギーに私は叶うんだろうか。こんなに強烈に渦巻く息吹に、私なんかが出来ることがあるって、勘違いしてるだけなんじゃないか。

 

圧倒されていた。

 

どこか萎縮して行った。

 

そして開き直った。

 

自信なんてない!なくていい!笑

 

 

 

オフィスで気のいいインド人の仲間と働いてみると、案の定?噂通り?、何が出来なくても自信満々の受け答え、終わってなくても嬉々として帰路に着き、やってなくてもやったと喜ぶ摩訶不思議ワールド。

 

そして今回何より響いたのは、このご時世の北インドでは、慈善活動は立派な「事業」だってこと。当たり前のことですが、私自信の欲求不満が、ちょっとだけピュアな夢を見させてくれただけだったことに気づいて、びっくりして目が覚めた。笑

 

 

事業主がいて、事業があって、雇用者がいて、色々回る。

回るのは商品や、サービスを介した雇用や経済、

スラムの衛生、医療、栄養、教育の改善を目的とする

寄付金であったりもする。

 

そんなの当たり前なんだけど

何か腑に落ちなくて引っかかっちゃうのは

ここがインドだから?

 

インドでは慈善事業はお金持ちの仕事。。っぽい。から?

元々資金のある限られた一部の人が

その生活水準を崩さずに

「非営利」で運営できて

寄付者も税金対策のお金持ち。

 

おじさん、おばさんばっか。笑

 

この時点でもう、私の知る日本の草の根学生ボランティアとか非営利フリースクールとのギャップが。いわゆる人民による人民のためのじゃない感じ???

 

当然インドは歴史的文化的背景が日本と全く異なるので、そう思うと飲み込まざるを得ないけど。カーストではっきりと職業区別があり、元々マハラジャの国だし、英国植民地時代の影響のヒエラルキーもバリバリ。

 

民主主義にはほど遠い。。。。

 

 

のか、どうなのか?

 

 

スラムに雇用を産んでるのは偉業だし、乳幼児死亡率も劇的に下がって地域をようやくまともな暮らしに立て直した業績は素晴らしいし、確かに誰もやらなかったら何も変わってないだろうし、とにかくやっている事は変化を産んでる。

 

地域貢献。

 

 

でも何となーく、例えばだけど、実家の北海道の田舎の事業所とかと同じ臭いがする。。。笑。謳ってるんだけど、さほど大きな理念はまだ感じられない。

 

 

私に向いてないだけかもなぁ、こういうの。笑

 

なるようになるとは思うけど。