裏ブログの、このブログを「表」と統合アップするつもりでしたが・・・。


書き分けをしようかと思います。




こちらは、どちらかというと実生活に根付いたこと(介護、家族、日々のこと&スピリチュアル的)を書こうかと思います。


表は、やや万人向けの“心のこと、オーラソーマのこと、生きる、人生的なもの”で。




このブログは、画面もバイオレットで落ち着いてて、内面の悲しみもしんどさも書きやすくて好きです。

なので、ダークであったりネガティブなことも書くとは思います。







ここ1週間。ネットが繋がってブログが書けるようになり、私の疲労感は著しく軽減しています。


『疲れ』というものは色々ありますが、精神的疲れは寝てもとれませんショック!



私は、文章化するっていうことでとても心がスッキリして安定する・・・ということがよくわかりました。



魂のカラーは、ブルーなので

ある意味ブルーは、表現することやコミュニケーションであるので

うなずけますニコニコ



そういえば、最近ブルー系のワンピースやスカートばかり着ています。

今日は、紺のポロシャツにジーンズあせる

青、ばっかりショック!あせる




ここ1週間で、義母の状態も次第にですが・・・よくないですしょぼん


ここ最近は苛立ちが強く、「あー言った」「こー言った」と、以前聞いていないことを急に言い、苛立ちをぶつけて来られます。


それもこれも、自由に動けない、意思の通りならない身体のせいなのです。



私に苛立っている。。。。。という表面ではありますが、結局は自分自身に苛立っているのです。

それがよくわかりますかお

だから、私はただ 聴く 。


そうカウンセラーのアクティブリスニング(積極的傾聴法)です。



家族なので、感情をぶつけられたら、言い返したい気持ちもうまれます。

「そんなこと聞いてなかったですよ!」って。


でも、うれしい気持ちもあります。


ぶつける という行為は、気遣いのある人には出来ないことです。



みなさんもそうではないですか?


家族にはつい、つっけんどな言い方をしてしまったり、反抗的態度をとってしまったり・・・。





私を育ててくれた祖母は、私が20歳のときに亡くなりました。

動脈瘤という血管にできたコブが破裂したのです。

数週間前から入院していました。


亡くなる日も親戚とお見舞いに行って、迷いながらもみんなといっしょに病院をあとにしました。

夜泊り込むつもりでした。

帰るとき、ぼーとしている祖母がボソボソと


「まりあは帰らないよ。」と言いました。


でも私は、「おばあちゃん、また来るから。1回帰るね。」と返しました。



1時間もしないうちだったでしょうか・・・

叔父に電話が入りました。

祖母の急変の連絡でした。



病室に入ると、白い布団がシワがあまりない状態で身体にかかり

白い布が顔にかかっていました。


私は半信半疑のまま

「おばあちゃん・・・?」といいながら、ベッドの向こう側にまわりました。


そのとき、私はベッドにぶつかり、祖母の身体が揺れたのです。

“ほら。やっぱり、うそだ。動いたもん。生きてる。”

と本気で思いました。


でも、もう2度と目を開けてはくれませんでした。





私を育ててくれた祖父は、その翌年に亡くなりました。

私は、看護師1年生で病院に入ってばかりのときでした。


93歳と高齢だった祖父は、年齢的なうっ血性心不全(心臓が弱くなったのですね)で、顔がむくみ呼吸もしんどくなり入院しました。


まだまだ慣れない1年生。

帰ったら、バタンキューな時期でした。

勤務の合間に顔を出すと、祖父は朦朧状態でしきりに顔を左右に振っていました。

祖父は私の顔をみると急に正気になり

「おばあさんが、ほめていたよ。」

と、一言いいました。


付き添ってくれていた伯母いわく

『おじいさん来た看護師さんに「私の孫も、看護婦なんです。」って言ってたのよ』と。

祖父は、夢とうつつを行ったり来たりしていました。


2日後に休みがあるから、今度こそ病院に泊まって看よう。。。。そう、祖母の時の後悔の気持ちをなんとか挽回したい・・・そんな気持ちがありました。

もう、後悔はしたくない・・・と。


休みに入り、駅から徒歩1分の病院へ向かい、入院していた病室に行くとそこはガランとしていて誰も、何もない状態でした。


間違えたのかと思い、何度も何度も確認しました。


ナースステーションで、伺うと

「退院されましたよ。」

と、穏やかな返答。


私は、“もしかして、病状がよくなって家に帰れたんかな?”・・・と楽観し家に電話をしてみました。

すると叔父が出て

「まりあ。おじいさん亡くなって帰ってきてるから、早く帰っておいで。」と穏やかに静かに言いました。


・・・・・

頭が真っ白でした。

受話器を握ったまま涙が溢れました。

叔父の声が、穏やかにやさしかったのを覚えています。





私を育ててくださった、祖父母は私にケアする機会を与えぬまま逝ってしまいました。

祖父母の子どもである伯母たちは

「本当に世話をかけないようにして、逝ってくれたんだね・・・。」としみじみ話している場面もありました。



私は、2人が死に瀕しているとき

自分のことばかり考えていました。

恥ずかしいことです。・・・

また背負いきれなかった・・・子どもだったんだなとも思います。

もっと、祖母・祖父のことを考えていれば・・・相手の気持ちや状況をもっと感じていれば・・・・と。



私の心の奥深くで刻まれたもの。

それは


時間は戻らない。不可逆的である。


 ― ということです。




また「死」というものが、よくわかっていませんでした(今もよくわかりませんが)


ずっと一緒にいた人だから

いなくなる

ということが信じられずにいたのです。



・・・信じたくなかったのかもしれません。





この経験があって

意を決して、今回介護引越しすることが出来たのだと思います。



自分のやるべきことは、私は今まで社会に出て仕事として人様に何かを提供していくこと・・・と思っていました。

家のことは自分がするべき価値のないことだと傲慢にも思っていたのです。


でも今は、家族という最小単位の中で苦しんだり助けが必要な人がいればそれをサポートするのは最も私のやるべきことと思うようになりました。



セラピストだ、カウンセラーだ、といいながら家族をほったらかし・・・


やはりそれは本質的に変ですよね。



だからだから

今、義母が苛立ったとしてもそれを私にぶつけてくださることは

・・・

なんだかうれしいのです。



つもったら、しんどくなるかもしれませんが

そこは自分をケアしながら、義母をケアしていけたら・・・と思っています。



せっかくいただいた、ケアさせていただく機会なので

大切にしたいと思います。




魂レベルでの、きっと約束だと思うのでね天使キラキラ