真実として
人が人を「助ける」ってことはないと思う。
ただ、「助ける風の体験」をさせてもらえる、「助けさせてくれる」人がいるということ。
きっと、ボランティアでその経験をさせてくれに来ているんだろうな。
内面のほじくり作業。
ゆったりした陽の時間(10~14時がおススメ)に、信頼できる人に聴いてもらうことで結構出てくるものです。
たまねぎを剥くようなもので、これにはきりがなく、そしてどれもその人にとっては「本当」であったりします。
私の幼少期。
それは、「表現を抑制し、感じることは自身の中に留めること」って言葉がしっくり来るかな。
口には出してはいけないな。と子ども心に思っていて、ただ感じることはたくさんしていたな、という記憶があります。
言ってしまったら悲しませる。
言ってしまったら困らせる。
そんな風に勝手に思い込んでのことだったでしょうか。
同じような感覚を感じていた方、いらっしゃるでしょうね。
だから、わたしはそれをせっせと日記の中で文字にして
白紙の中では絵にして、発散していたと思います。
ひとりのそんな時間が、とっても癒されていたのかな
勝手に
助けたい。と思っていた(みたい)幼い無力な私。
父。(精神的に)
祖父母。(身体的に)
大人になってからはでは、母。
本当は、そんな必要もなく
みんなボランティアとして、鏡として存在してくれていたのに気づかない私。
家族というのは、近くて
自分の気持ちなのか、相手の苦しさなのか?わかりにくくなるのかな。
久しぶりに
「助けたい、あの人」があらわれた。
でも、これ、父の幻。
すっかり消化したと思ってたけど、まだやっぱり「悲しさ」残ってた
みんな、大丈夫。
私も、大丈夫。
みんな、それぞれの道で遊ぼう
私の最大の、この道での遊びは
「高める」ってこと。
それが、一番楽しい
起こる出来事に、巻き込まれて、感情がわーとなって、グルグルもするんだけど
その出来事を遠くから眺めたときに気づく楽しさ
やめられないわ