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整体ナビゲーターゆにちゃんの日記

気になった記事があったのでみなさまにご紹介させてください。


クレヨンハウスという出版社から出ている、整体ボディーワーカーの山上亮さんの本


「整体的子育て2」に掲載されていた本文を引用いたします。


以下、本文


「排泄が芸術になる」


自分の中で動いていることをきちんと表に出すこと。そして人間関係に


おいては、それがお互いにできること、つまり出したものがお互いにめぐ


ること。それがわたしたちが健やかでいるためには、とても大切なことな


んです。一方通行ではダメなんです。挨拶したのに返事がない。お金を貸


したのに返ってこない。どちらもいけません。からだがメッセージを出し


ている。子どもがメッセージを出している。なのに無視して返事をしない。


それもやっぱりいけません。便が出せない、汗がかけない、そういうめぐ


りが滞っているところ、流れの止んでいるところが、まさしく病んでくる


んです。水も流れているうちはきれいに澄んでいますが、流れが止んで


滞ってくると、濁って淀んで腐ってきます。流れているうちは浄化作


用が働く。それはからだも人間関係も自然界も同じです。


 「子育て」という観点から語れば、そういう「めぐるからだ」「排泄でき


るからだ」「表現できるからだ」を育てていくことが大事なわけですね。


やはりからだというものが人間の根本としてありますから、大人になって


からきちんと排泄できるようになるためには、もっともからだが育つ幼少


時に「排泄できるからだ」「表現できるからだ」を育ててゆく必要があり


ます。「排泄できるからだ」とは、熱を出し、汗をかき、便を出し、感じ


たことを表現でき、思ったことを行動できるからだです。そういうからだ


は非常に代謝がよく、まためぐりがよい。ですから余分なものを抱え込み


すぎずに、非常に風通しのよい状態でいることができるんです。


「健康である」ということは、何があっても動じないということではあり


ません。整体はそんなからだを目指しているわけではないのです。むしろ


何か合ったらすぐ揺れる、ちょっとした変化にもすぐ反応する、そんなか


らだを目指しているのです。それはある意味、「傷つきやすいからだ」と


もいえるかもしれません。何かに「傷つく」ということは、そのまま何か


に「気づく」ということです。「傷つかない/気づかない」からだは何も


変わることができませんが、「傷つく/気づく」からだは変わっていくこ


とができる。わたしたちは何かを感覚するとき、つねにちいさく傷ついて


いるんです。そのちいさな傷とちいさな治癒のくりかえしが、わたしたちの


感覚を支えている。からだが「傷ついた/気づいた」ことをしっかり表に


現わしてゆくことが、「排泄する」「表現する」ということの意味なのです。


理想的なことをいえば、さまざまな自分の中からの排泄や表現の方法を


どんどん練り上げていって、それがある種の芸術行為にまで高まってゆく


と素晴らしいんです。たとえば怒りの感情が沸き起こってきたときに、そ


のまま相手を殴るという単純なカタチで表に現わしてしまったら、ひとを


傷つけることになってしまいます。ですが、その怒りの表現を粘土や絵画


や歌や踊りに込めていけたらどうでしょう?それはきっと観る者のから


だを震わせ、こちらを突き動かすものにまでなってゆくはずです。


芸術が観るものを打ち震わせるのは、そこに込められた「その表現のカタ


チに至るまでの作者の内的な葛藤」にわたしたちが無意識に感応し、体感


しているからなのです。高められた表現行為、排泄行為は、そのようにし


て観る者のからだやこころに響き、そこにひそんでいる表現されるべきも


の、排泄されるべきものを、グラグラと揺さぶります。そこではすでに、


観る者の排泄を誘発する治癒的な作用が働きはじめているのです。ですか


ら、よい表現者はみな、よい治癒者であり、よい教育者たりうるのです。


それはわたしたち大人がみな目指すべき方向性といえるでしょう。



引用、終わり


「わたしたちは何かを感覚するとき、つねにちいさく傷ついているんです。」


ここのくだりで、いろんなことふわっと浮かんで、なんだか泣けてきました。


「みんな幸せ」


野口先生が七夕の時に、決まって短冊にこう書いていたらしいです。


生きとし、生けるものが幸せでありますようにキラキラ